雨が降っている。
街を包む薄汚れた空気は、雨に洗い流されていく。
人びとが寝静まる、夜も遅い頃だった。少年は、廃棄物で溢れかえる路地裏の一角に立ち尽くしていた。息は切れ、傘も差していないために全身が濡れている。呼吸がなかなか整わないことにも、頭の天辺から靴の先までずぶ濡れであることにも、本人は微塵も気づいていなかった。
少年の身体を濡らすのは雨だけではない。
血が、闇夜に紛れていた。
右肩から右手の甲にかけて、少年は血を浴びていた。少年のものではなく、他人の血だった。
少年は人を傷つけた。直後、自分が何をしたのか、これからどうなるのか、どうすればいいのかが何もかも全く考えられなくなり、その場から逃げ出してここまでやってきた。走っている間、ただ足だけが勝手に動いていた。少年がようやく理性を取り戻すと、足はおもむろに止まる。今度はそこから、一歩も動けなくなってしまう。
少年の耳に、彼を追う刑事の声が届く。少年はまた、逃げなければと思うのだが、やはり足が地面に打ちつけられてしまったかのように動かせない。走り出せと脳から命令を送っても、足は情けなく震えるばかりだった。やがて少年は、望みなど絶ち切るべきだという思いが胸の奥から突き上がってくるのを感じ、もがくことをやめた。黒い雨空を見上げ、雨と一緒に泣こうとした。
少年の手が何者かに掴まれた。
白髪の年老いた男だった。口の両端に小さなえくぼがある。だが顔に笑みはない。無数の皺の中で切れ長の細い目が埋もれて縮こまっている。
悲しい顔をしていると、少年は思った。
「逃げよう」
顔と同じく皺だらけの男の手に力がこめられる。少年は、全身が温かな何かに包まれるかのような感覚にとらわれていった。
「逃げるんだ。私と一緒に」
足の震えが止まった。
頭から爪先まで全身に熱い血が通い、再び動き出す。少年と男は、雨をくぐり抜けて闇の奥へと駆けていく。
その夜、警察がふたりを発見することはなかった。
機関車強奪事件の第三の犯人が逮捕されて数日、レックスは普段よりも早い時間に出勤していた。ただし、レイに起こしてもらったのではない。レイが起きるよりもずっと前に、レックスはベッド代わりの長椅子から抜け出していた。レックスは、ここ数日の夜ほぼ一睡もすることができずにいた。食欲もなく、朝食はパンを一枚口につめて、それを冷めたコーヒーで喉の奥に流しこむだけで終わる。レイの寝顔をひと目見てから、レックスはアパートの部屋から逃げるように出ていく。
この日、レイの目の下に、比較的新しい涙の跡があったが、見て見ぬ振りをした。
時間には幾分余裕があるはずなのに、レックスは中央部警察署にたどり着くまでの間終始どこか落ち着きがなかった。足早に鉄道保安課の事務所へ入室し、自分の机に就くと、大げさな動作で首を前に垂れる。
「お早い出勤は結構だが、朝から姿勢が悪いぞ」
カイルが背広の上着を脱いだ姿でレックスの横に立った。シャツには皺ひとつなく、垂れ下がるのが煩わしいのか藍色のネクタイは右肩になでかけられている。
「何かあったのか、とか聞いてくれないのかよ」
「いかにも何かあったのかって聞いてほしそうな雰囲気を作るもんだから、聞く気が見事に失せた」
「へっ、いいよ別に。とてもじゃないけど、まだみんなには話せそうにないことだし」
カイルは腕を組み、レックスの事務机に下半身をもたれさせる。
「当ててやろう。あのガキのことだろ」
「ガキって言うな」
「へいへい、レイ君ね。どうなんだよ、他人同士の共同生活は」
「もう他人じゃない」
「じゃあ、息子か。まだ女も作ってないのに」
レックスは悩ましげに首を振る。レイをアパートに初めて連れ帰った日、些細な冗談のつもりで自ら口にしたことのある「息子」という表現を、声には出さず反芻する。
「息子、は違うかな。でもただの同居人ってわけでもないし、家のこといろいろさせてるけど、単なる家事手伝いとも思ってない」
「じゃあ、なんなんだ」
「なんとも、さっぱりだ。どんな言葉で言い表したらいいのかが。俺もまだまだ知識不足だな」
「やっぱり読書家っていうのは嘘だったか」
「嘘じゃねえよ。レイとだって、読んだ小説の感想を共有したりとか、なかなか知的な意見交換だってしてるんだぞ」
「何が知的な意見交換だ。どうせ、幼稚な本ばっかり読んでるんだろ。どれ、俺がとびきりのやつを貸してやろう」
「そういう目的で本を読むな馬鹿」
その後もレックスとカイルは軽口を叩き合っていたが、スカーレット・マイヤーがいつにも増して不機嫌な様子で事務所に入ってきた途端、口を閉ざした。たとえ機嫌が悪くなかったとしても、彼女の存在は室内の空気を瞬時に張りつめさせる。
「心外だ」
「はい」
「こんなことは決してあってはならない、と言っている」
普段、直接怒号を浴びせられることの多いレックスは、彼女の言葉と今までに重ねた経験から、今朝に比較的重要性の高い事件が起きたのだと察した。彼女は何も言わずに紙の資料をレックスたちに配り、手元に残った最後の一枚を机に叩きつける。
資料には、ふたりの人物の名前、顔写真及び略歴が記載されている。ひとりはローランドという壮年の男性、もうひとりはリックという十代の少年だった。リックの写真はごく新しいものであるのに対し、ローランドは十年ほど前に撮影されたものを使用しているとの旨が写真下部に付記されている。
資料の題名には、「手配書」の文字があった。
「昨夜、バノック第三区民家にて殺傷事件が発生した。被害者は資料のふたり目の少年、リックの父親だ。傷は浅く命に別状はないという。捜査一課は、被害者から『息子に刺された、気がついた時には家の中からいなくなっていた』との証言を得ている。よって少年を容疑者として追跡中である」
上司の突飛な説明に対し、カイルは眉根を寄せながらも軽く手を挙げる。
「あの、いいですかねマイヤーさん。聞いたところ、ただの刑事事件じゃないですか。それもごく単純な。俺たちとは、その、どういった関係が」
「質疑応答は話がすべて終わってから行う。まずは最後まで聞け」
口の形を歪ませて不満を露わにするカイルと、目を細めて資料を睨み、必死に状況理解に努めるレックスをよそに、説明は続く。
「次に、資料のひとり目の人物ローランドだが、かつて我が鉄道保安課に所属していた人物だ」
レックスとカイルの目が、ぱっと見開いた。
「かつてというのはもう、随分と昔の話だがな。今は警察組織にも在籍していない。本人の一身上の都合により半年前に退職している。私も何度か顔を合わせた程度で、面識はさほどない」
ここで、言葉は一旦切られる。読み手は資料から目を外し、まるで言うのを躊躇しているかのように不自然な間を置いた。
「一課で彼と仕事を共にした者たちの話を聞いたことが何度かあるが、悪い噂は全くと言っていいほど耳にしなかった。若い新人が悩み事を打ち明ければ親身になって話を聞いたというし、痴漢冤罪が起きれば機転を利かせて容疑を晴らしたとも聞いている。いつまで経っても口を開かない人見知りの迷子を小一時間説得し、すっかり仲良くなって、その後無事見つかった親御さんに涙ながらに感謝されたこともあるそうだ」
「そんなお巡りさんの鑑みたいな人が、今はこうしてお巡りさんに捜索されていると」
ある明朝、新聞配達員が朝刊を届けにローランド氏宅へ向かった際、郵便受けに昨日以前の刊行物が詰まったままになっているのを発見、不審に思い家の扉に目をやると鍵が開いたままになっていた。配達員が意を決して家の中へ踏みこみ確認するも本人不在、書き置きなどの不在理由を明らかにするものも何ひとつとして見つからず、それをきっかけに彼の失踪が発覚した。
「加えてローランド氏は昔、リック少年とも関わりがあったらしい。詳細はこれから調べ直すが、ざっくり言えばリックが犯罪に近しい事象を引き起こし、それをローランド氏がお情けでうやむやにしたという具合だそうだ」
苦っていたカイルの表情が、軽薄さを伴う笑みに変化した。
「大体読めましたよ。そのローランドっていうじいさんと若き少年リックが、同日に行方不明になった。つまりなんらかの接点があるのではないかと踏んでいるんじゃないですか、マイヤーさんは」
「まあ、そういうことだ。もちろん全くの無関係なのかもしれん。ただ、どちらにしろ捜査の道筋は二名の身辺調査を経てからの居所特定となるし、ふたりが行動を共にしている可能性も今のうちから検討しておいて損はない。むしろ一緒にいてくれたほうが、こちらとしては助かるが」
「ひでえなあ、かつての大先輩なのに」
「余計な情を抱いているのなら即刻認識を改めることだ。捜査対象者は、単なる行方不明の年寄りと、殺人未遂容疑のかかる年少の男子でしかない」
「おお、怖い怖い」
今度は苦笑を浮かべるカイルは、上司の鋭い視線を受けつつも、冷やかすような態度を崩さない。一方のレックスは、いつカイルが怒鳴りつけられるかと気が気でなく、自分が睨まれているわけではないのに恐れ慄いている。
「とはいえ、だ。ローランド氏が鉄道保安課に身を置いていた事実がある以上、現に身を置いている我らが知らん顔でいるというわけにもいかん。一課からも要請が来ていることだし、今回は特例として私と貴様らも捜査に加わることになった」
「珍しいですね、マイヤーさんが体裁を気にするなんて」
「ああ、そうだ。こんな掃き溜めのような課はさっさと踏み台にして、もっと暴れ甲斐のある上位の部署に移りたいのでな」
「そこは否定してくださいよ。マイヤーさんがいなくなったら、保安課なんて腑抜けも同然じゃないですか」
「一番の腑抜けが貴様であるという認識も併せて持っておけ。さもなければ鉛の弾丸で思想教育を施すことになるぞ」
凄みの増す声に、カイルもようやく彼女の命令を真面目に聞く姿勢を見せた。のちに約束されていた質疑応答の時間が来ても、カイルは何も言わなかった。レックスのように怯えているわけでも、かといって反発しているわけでもなく、頭の中をすっかり切り替えていた。普段こそ不真面目さの目立つカイルだが、ひとたび集中した時の洞察力は鋭く、思考の末に打ち出す判断の正確性も高い。スカーレット・マイヤーもその能力は認めているために、彼の態度に対する叱責は必要以上に多くはならない。ただし、少なくなることもない。
「聞いているのかレックス。今の言葉は貴様に対する忠告でもあるのだぞ」
「え。あっ、はい」
レックスは、ローランドとリックの顔写真を食い入るように見つめていた。
手配書に載るふたりの男は、年齢も顔立ちも全く異なるのだが、悲しそうである、という点ではひどく似通っている。
出会った日のレイが浮かべていた、まるで何もかもを諦めてしまっているかのような表情を、思い返さずにはいられなかった。
ローランドとリックの行方を探る糸口を掴むべく、レックスとカイルは行動を開始した。カイルはローランドの、レックスはリックの関係者に話を聞きに行き、食事休憩を兼ねた結果報告を事務所で行う手はずとなった。
レックスは捜査資料を元に、リックが通っている学校へと赴くことにした。事件の被害者であるリックの父親及び親族にはすでに捜査一課の手が回っている。違う方面から手がかりを掴むとすれば、未成年が家族の他に所属する社会、学校しかないと狙いを定めた。
中央駅から鈍行に乗り三駅ほどを跨ぐと最寄り駅に到着、通りに出て数分も歩けば、のどかな住宅街が現れる。学校はその先に門を構えていた。レックスは外に立つ守衛にお決まりの警察手帳を掲げながら事情を説明し、拙いながらも話を聞かせてもらえるよう交渉した。結果あっさりと正門は開かれ、レックスはリックの級友数名及び担任教師と応接兼校長室にて顔を合わせることができた。
「なんというか、何を考えているのか、いまいちぱっとしないやつなんです。口きいてるのを見たことがない」
証言者の第一声からレックスの気は重くなる。レックスは移動中、何故リックが人を刺してしまったのか理由を考え、幾度か無意識にため息を漏らしていた。人が人を傷つける理由に明るみなど存在しない。今回に至っては子が親を傷つけている。少年の中に潜む暗闇はどのくらいの深さなのかと、レックスの頭には文字通り暗い想像しか浮かばなかった。
「おとなしい子、なのかな」
「おとなしいどころじゃないよ。休み時間は誰とも何も喋らないし、自分の席で本ばかり読んでたもん。いつもひとりだった。少なくともこの学校に彼と仲の良い人はいないと思う、じゃなかった、思います」
「気を遣わなくても結構だ。彼は、いつからそんな風になったか知っているかい」
「私がご説明します」
生徒たちに代わり、眼鏡をかけた若い男性教師が改まった調子で話す。
「実はリック君なんですが、以前にも問題行動を起こしておりまして」
「ええ、私もその件については存じております。当時の担当捜査官はローランドで間違いないでしょうか」
「ええ、ローランドさんです。忘れるわけがありません、リック君にあれだけ親身になってくださったのですから。あの人がいなければ、リック君は今頃どうなっていたか」
言って男性教師は、意図せず自身の言葉に皮肉が含まれていることに気づくと、耳にきつくかかる眼鏡蔓の位置を無意味に正した。行き場所を失った右手は左手と固く合わさり、広く開いた両膝の間にできる空間に落とされる。しかし腕が間断なく小刻みに震えていて、手の位置はなかなか定まらない。その様を、ただ押し黙ったままの教え子たちの視線が追う。そのうちのひとりは、笑いを噛み殺している。
「どうしてこんなことになってしまったんだ」
教師の悲嘆を、レックスは無視する。どうでもいいというわけでなく、向き合うのがつらかったからだった。苦しみや悲しみに飲みこまれそうになる感情から逃げたくて、事務的会話に徹する。
「差し支えなければ、リック君が過去に起こした行動と、ローランドがどのように対処したかという一連の流れを、改めて詳しく教えていただきたいのですが。事実の再確認も兼ねて」
下を向いたままの男性教師によって、事実は簡潔に語られた。
長期休校の最中、リックは級友の女子生徒を連れてある場所へ向かった。その行動は、双方の家族はおろか、女子生徒本人の合意すら得ないものだった。
「無理に、連れていったのですか」
「はい。私はその日、学校で雑務に追われておりましたので、又聞きでしかないのですが。列車を乗りついで、丸一日かかったようです。彼らが発見されたのは、夕方過ぎのことでしたから」
「それで、その場所とは」
「普段は人が寄りつくことのない、森の奥の小高い丘です。バノックの街を一望できるのですが、それだけのところで、他に特別なものは何ひとつとしてありません。私も後日、実際に足を運んでみましたが、リック君がどのような思いを持って彼女を連れ出し、あの場所へ赴いたのかを推し量ることは、どうしても、できませんでした。やや強引にでも挙げるとするのなら、丘からの景色を女子生徒に見せたかったから、となるのでしょうか」
ただ、発見されたリックは警察に連行される際、ある言葉を発しながら抵抗した。
「『星の海が見たい。あと少しだけ待って』と」
「丘の名称ですか」
「あの丘に固有の地名などありません。私もあれこれ考えましたが、丘に登らなくとも星空は街のどこででも見ることができますし、仮に、本来の意味での海を指しているのだとしても、その逆で、いくら丘の見晴らしが良いからといって、バノックで海は見られないでしょう」
誰もがなんのことだと尋ねるが、リックは幼子のように癇癪を起こすばかりだった。最終的に彼の言葉はまともに取り扱われることのないまま、リックは警察に身柄を確保される。女子生徒に関しては外傷もなく心的状態も至って健全だったため、簡単な事情聴取のみですぐに帰宅させた。
「彼女自身、物事に正対したがらないというか、肝が据わっているというか。他の子と比べると若干、変わり者ではありました。ですがやはりまだ年端もいかない女の子です。人並みに怖がってはいました。リック君のことも、一体どういうつもりであんなことをしたのか微塵も理解できない、と、冷めた調子で言っていましたよ。極端に怯えていたり、リック君を激しく拒絶するといったような反応は、あまり見られませんでしたがね」
数秒、間が空いた。
「リック君と女子生徒に、交友はありましたか」
「いえ、私の知る限りでは。彼女も、特に親しくはありません、と」
「女子生徒は、丘について何か証言していましたか」
「それも答えは、いいえ、です。丘にはあの時、初めて訪れたとのことです」
レックスは、リックは犯罪に近しい事象を引き起こした、と聞かされていた。今聞いた事実はこうだった。特に親しくもない級友の女子生徒を、彼女が知りもしない場所に強制的に連れていった。リックになんらかの意図があったのだとしても、その行動自体は許されるものではない。警察に属する人間である以上、割り切らなければならない。雑多な記述にあふれた手帳を見つめながら、レックスは何度も自分にそう言い聞かせた。ひとりの警察官として、公平無私であろうとした。
「要するに好きな子とデートしたかったんだろ」
「でもまともに言い寄っても相手にされるわけがないから、強制連行したってか」
「可哀想」
男性教師が生徒たちを叱りつける前に、レックスは学校を後にしていた。
レックスは事務所に舞い戻り、カイルと合流した。途中駅の売店で購入したサンドイッチで腹を満たしつつ、仕入れた情報を共有する。予定では昼頃には済ませるはずだったが、実際にはすっかり日が落ちてしまってからになった。先に言葉を発したのはカイルだった。
「マイヤー姐さんの言う通りだったよ。過去に世話になったっていう連中を一通り当たってみたんだが、じいさんのことを悪く言うやつなんかひとりもいやしない」
「それだけ優れた警察官だったってことなんだろう。でも、どうして今、行方をくらませているんだ」
「やっぱり少し前にあったっていう、リックの出来事絡みなんじゃないのか。話を聞いてきたんだろ、お前」
「うん、まあ」
「いかにもお前が機嫌を損ねそうな話だったんじゃないか」
カイルのからかうような口調に、レックスは素直に嫌そうな表情を作る。前面に押し出される攻撃的感情の波は、カイルの乾いた笑い声ではね返された。
「悪いが、これからもっとお前のご機嫌が悪くなりそうな情報を話すぞ。さっき俺はローランド爺さんのことを悪く言うやつはひとりもいなかった、と言った。だが聴取対象は仕事で爺さんの世話になったやつら、爺さんに上司として恩義を感じているやつら、つまり警察関係者ばかりだ。俺が何を言いたいか分かるか」
「家族はどうなんだ。友人は」
「そうなんだよ。爺さんと関わりがあるのは同族の連中、それもほとんど仕事上の付き合いでしかない。そいつらに尋ねてやったんだ。ローランドと仲の良い人を誰か知らないか、って。みんなこれまた見事に口を揃えてな、言うんだよ。知らないって」
その後カイルは警察関係以外のローランドの交友関係を探ってみたが、親しい者は誰も出てこなかった。結婚はしておらず、両親もすでに亡くなっており、親戚などの身寄りもないという。
「ある意味リックより悲惨だぜ」
「嫌われてるわけじゃないんだろ」
「だから悲惨だって言ってんだよ。爺さんが独りだってことに、今まで誰も気づかずにいた。何か理由があるのかもしれないが、だとしても本人に直接聞いてみないとこればっかりはどうにもできん。だって、誰も何も知らないんだからな」
カイルすら、最後には軽薄な笑みを一切、消してしまった。レックスもやりきれない気持ちに襲われ、手帳に挟んでおいたままのローランドとリックの顔写真に視線を落とす。
やはり、レイと同じだった。無表情という名の仮面の裏に、耐え難い苦しみを隠している。いつかどこかで救われることを待ち望んでいる。レックスにはそう見えた。たとえそうでなかったとしても、そういうことにしようと思った。
レックスはカイルに、以前リックが起こした行動の概要を詳しく話した。カイルもまたローランド側からこの件について話を聞いているらしく、説明に説明を付け加えていく。互いの情報はそれぞれ縫い合わさるかのように、当時の状況をふたりの頭の中に構築していった。
リックと女子生徒が行方不明になった報せ自体は届いていなかったのだが、列車を乗り降りするふたりの姿が駅で数件目撃され、その目撃証言が警察に行き、結果的にローランドがリックたちの捜索のために動くことになったという。身柄を確保した後のリックに対する取り調べも、ローランドが担当した。
「雰囲気からして、それほど深刻ではなかったらしい。なにせ被害者の女子生徒が大してうろたえてなかったからな。形式的には誘拐罪となるんだろうが、実質学生の悪戯が過ぎた、みたいな扱いをされてたんじゃないかね」
取り調べは十数分で終了する。ローランド曰く、犯行動機は学校の授業についていけないという焦りが引き起こした心労によるものであり、ほとんど衝動的なもので悪気はなかった、とのことだった。反省もしているし、女子生徒と同様にこのまま帰してしまって問題ないだろうとローランドは言い切り、本当にそのまま解放したという。
ここで「事件」は終わった。後日双方の家族の合意も取られ、公的記録には残されないことが決まる。以後、警察官同士の暇つぶしの話の種として語り継がれているようだ。
なお、ローランドの取り調べの内容を聞いた者は他にいない。
「言っちゃ悪いけど」
「怪しいよな。動機も嘘っぽいし、爺さんがでっち上げた可能性すらあるぞ。十数分の取り調べの中で、今回の事件に繋がる何かがあった。そう考えるだろ。まあ完全に俺の勘で、確証は何もないわけだが」
「それを言うなら、俺も確証はないけどリックの居場所に心当たりがある」
「『星の海』か」
カイルは自身の発した語句に失笑した。
「実際言葉にしてみるとこそばゆいな。いかにも社会に出た経験のないガキが思いつきそうな呼称だ」
「だからそういう言い方はやめろってば」
「はいはい、どうもすみませんでした、っと」
事務室の電話が鳴り、レックスが出た。相手は中央からそう遠くない、とある駅の職員だった。やり取りは一分足らずで終わるが、レックスは安心しきったような、それでいて悲しむかのような表情と共に、受話器を置く。
「ローランド氏と思われる男の目撃情報。フードを目深に被り、十代ぐらいの少年を連れて各駅停車の車両に乗りこんでいったらしい」
「まったく、あっけない。待ってろ、経路調べる。次の駅の詰め所に俺たちが現地に到着するまでは勝手に身柄確保するなと伝えとけ。どうせなら、丘を最後の場所にしてやる」
カイルは事務机の上にバノック全域地図の台帳を広げた。今いる中央駅から丘までの道筋を指でなぞっていく。レックスは慣れない手つきで電話機のダイヤルを回し、駐在職員たちへ情報を拡散する。そうしてローランドとリックの元へたどり着く準備が整った頃には、すっかり夜の帳が降りていた。
夜がどれだけ深くなろうとも、絶えず動き続ける機関車の走行音と、機関車の到着を知らせる警告灯の明滅は昼間と変わりない。中央部警察署は駅の近くにあるため、走行音は日常的によく聞こえるし、視界の隅には明滅の一部が映りこむ。他にもたくさんの音や光がこの街を埋め尽くしているが、すべてこれらにかき消される。街を歩く人びとはこの環境に順応し、何も思わない。
「曇ってて星がよく見えないな」
カイルは自分でこしらえた簡略な地図から顔を上げ、窓の外に目をやりつぶやく。レックスはカイルよりも先に空を見上げていたが、すぐにやめてしまう。
「大丈夫だ。今日も『星の海』は拝める」
「どうしてそんなことが言い切れる」
「いいから、行こう」
レックスが明かりを消すと、事務室を照らすのは窓から断続してわずかながらに漏れこんでくる警告灯の光だけになった。レックスが部屋を出る際、一番強くなる瞬間の光が彼の顔に当たり、カイルはその表情を見ることができた。あまり明るくはなかった。
丘へは容易にたどり着くことができた。ローランドとリックも、まるで発見されるのを待っていたかのように、木の陰などに隠れるでもなく並んで立っている。森の中は不思議なほどに静かで、丘まで登ると機関車の走行音もほとんど聞こえない。風も止み、音のない夜がそこにあった。
逃亡者ふたりは、レックスたちの存在に気づいてもその場から動こうとはせず抵抗する素振りも見せないので、カイルはレックスひとりで問題ないと判断し、捜査一課に連絡するため先に丘を降りていった。レックスは少しずつ、ふたりに歩み寄っていく。ふたりはレックスに背中を向けたままだ。やがてレックスは丘の切り立った先端部分にまで来て、歩を止める。
視線は上でなく、空の彼方を往く。
無数の光が点在していた。住宅街のまばらな明かり、街灯の規則的に並ぶ明かり、走る列車に合わせて動く明かり。暗いはずの夜をそうと感じさせないほどに、街は変わらず輝いていて、動いている。バノックというひとつの街の中のあるひとつの風景でしかないのに、レックスは海を見ているような気分になった。こんなにも広いのかと思った。どこまで続いているのだろうと思った。きっと、永遠に続いているはずだと信じたくなった。
列車の明かりだけが、街を越えたずっと遠くにものびている。
「あの子だけは、理解してくれるって思ってた」
唐突に、リックが話し始めた。ローランドに語りかけているわけではなく、かといってレックスに語りかけているわけでもない。
「あの子は他のやつらとは違う。確信があった。だからこれを見せたくてこの丘に連れてきた。でもそこで終わり。たぶん見せられたとしても、何も、感じてくれなかったと思う。わあ綺麗だね、でもそれだけ、はいおしまい、って。あの子も俺とは違ってた」
「他のつまんないやつらと同類だったってか」
ローランドの返しだった。独特のしゃがれ声で、レックスは聞き取りづらいと感じる。
「つまんないなんて言ってないじゃん。あの子も他のみんなも。ただ、俺とは違う、ってだけ」
「お前の家族もか」
「うん」
「だから傷つけたのか」
「ううん」
リックは首を横に振る。
「『お前はひとりじゃないよ』なんて言うから。親のくせに。家族のくせに。今まで俺のことを育ててくれたくせに。感情としては怒りじゃなくて、呆れの方が近かったかもしれない。でもさ、俺、やっぱり馬鹿だったんだ。家族にさえ理解してもらえないのに、赤の他人に理解してもらえるわけがなかった」
「違うよ」
今度はレックスが声を上げる。リックの返答はないが、黙る。それが反応だった。
「家族だからとか他人だからとかじゃない。家族にしか理解できないこともあるし、家族には理解できないこともある。同時に、他人にしか理解できないことも、他人には理解できないことも。君を理解することができるのは、君を心から理解しようとする者だけだ。どこかにいる誰かでしかないんだ」
言い切ってからレックスは、まるで苦しむかのように顔を少し歪める。思うところがあったとはいえ、いきなり見ず知らずの少年に意見しているのが傲慢に思えたというのもあった。しかし何より、ついさっき発したばかりの自分の言葉を自分で疑い始めていたからだった。本当にそうなのかと自問する気持ちが、じわじわと胸の中に広がっていくのを感じていた。偽りのない、心からの発言だったのにもかかわらず。
リックが振り返った。
両目は大きく見開かれ、口は半開きになっている。単に驚いているだけで、怒ってはいなかったし、悲しんでもいなかった。すぐに、無表情に戻る。
「心から理解しようとしても、できなかったとしたらどうだい」
ローランドが、レックスではなくリックの方を向きながら言う。その問いかけはレックスに鈍い痛みを与えるものだった。
「私はリックを助けてやりたかった。リックという少年に、自らを重ねていたからだ。だが実際は、目の前には丘という名の行き止まり。背には警察、逃げ場なし。あっけなく錠を下ろされ、明日には冷たい檻の中。私には助けてくれる家族もいなければ、匿ってくれる友人もいないからな。おまけに私は、リックを救ってやれない」
リックとレックスは、同じ瞬間に声を荒らげていた。
「でもローランドさんは俺が逃げるのを手助けしてくれたじゃないか」
「そうです。元は罪を許さない立場の人間だったあなたが、リック君を前にして罪を許したも同然の行いをなされた。罪を認めさせ償わせるのではなく、罪から目をそらし、逃げ延びることに手を貸した」
ローランドがゆっくりと振り向き、レックスに顔を晒した。眼下の街からの逆光で、夜でもはっきりと確認できる。
「独りは寂しい」
リックが小さく声を漏らすのを、レックスは聞き逃さなかった。
「友が欲しかった。たとえば、些細なことで目笑を交わせるような友人が。だから私はこの少年と友達になろうと思った。こいつには罪を犯したという弱みがある。よって私には逆らえない。ふたりだけでどこか遠いところへ逃げて、残りの人生を穏やかに暮らしたかった。リックもそうしたいだろうと思っていたのだ。ところがリックは言うんだ平然と。『俺はずっとひとりで生きていく』。私は思わず聞き返したよ。しかし答えはやはりこうだ。『ひとりは寂しくない』。なんということだろう、同じ遠くのどこかへ逃げたい私たちは、逃げた先で結局また『ひとり』と『独り』に成り果てるというわけだ」
リックは絶句していた。
彼を見下げるローランドの顔は、果てしない苦しみに満ちている。
「悪いな少年。お前を救ってやれなかった。そもそも何をどうすれば、お前を救ってやることができたんだろう」
わずかの間肩に手を置いた後、何も言わないリックのすぐ横を、ローランドは通りすぎていく。そのまま森へ入っていこうとするのを、レックスが阻む。
「どこへ行くんですか」
「どこって、警察だよ。安心しろや、もう逃げたりしないから。あんたはあの少年を見ててやんな。今に悪い気を起こしたりしないように。年寄りは独りで勝手に牢の中へ収まるさ」
レックスも何も返すことができず、ローランドの行く手は開かれる。しかし数歩進んでから、ローランドは不意にレックスの方へ向き直る。
「そういや、あんた。名前はなんていうんだい」
「はい。レックス。レックス・ベイカーといいます。中央部警察鉄道保安課所属巡査であります」
「へえ」
その時、悲しみに覆われていたはずのローランドの顔に、微かな笑みが浮かんでいた。
「頑張れよ、後輩」
森の中でさえ、わずかにしか響かない一言を吐いて、ローランドは街へと続く道を下っていった。リックを見張っていなければいけないのに、レックスはローランドの姿が見えなくなるまでずっと、深い森の奥を見つめていた。
ローランドとリックは逮捕された。事件発生から解決までに大した時間はかからなかったものの、未成年が肉親を襲い、それを退職した警察官が一時匿うという特異な事件展開は、人びとの一定の関心を引いた。
ローランドはのちに現場に駆けつけたカイルと捜査一課、リックはレックスが身柄を確保し、それぞれ留置所に引き渡した。
リックが初めて丘を訪れたのは、ローランドや女子生徒と一緒に来るずっと前の頃だったという。周りの環境になじめず、どこか人のいない場所、人との繋がりから完全に断ち切られている場所を探して街外れの森に迷いこみ、ひとり、あの光景を目の当たりにした。それ以来、落ちこんだ時は決まって丘の上に立ち、バノックの夜の街を見下ろす習慣がついた。どこまでも続いているかと思われる光の線をただじっと眺めていると、きっと自分と同じ「ひとり」を求める者がどこかにいるはずだという、不確かだが、決して捨てきれない希望を感じ取ることができたと、彼は言う。
ある日、自分と同じ学校の同じ教室に、同じ「ひとり」を求める者がいると確信を持った。それが件の女子生徒で、リックは彼女に、同じ希望を教えてあげたかったと語った。ところがリックの確信は脆く崩れ去り、気づけばローランドの取り調べを受けていた。
自身の確信に致命的欠損が伴うと悟った少年の存在は、また別の人物の誤った確信を誘発する。
あくまで明確な理由はない、らしい。
ただ、人と接するのが苦痛だった。他愛ない話をすることはできる。その気になれば合間に冗談を挟むこともできる。しかし、そこまでだった。踏みこんだ関係には自分からなろうとせず、たとえ相手から踏みこまれたとしても、にべもない反応に覆い隠された拒絶を打ち返すだけだった。だから、今まで親しい仲の友人を作らなかった。
作ろうとしなかったし、作れなかったが、欲しかった。ひとりだけ。
漠然とそう思いながらも、仕事のことを主に考えて生きた。いつしかそれ自体が生きる意味になり、リックに出会ったあの日も、余計な思考を頭に入れることはせず無心で業務に従事していた。特別でもなんでもない、ただの一日だった。
ふたりは互いを自分のようだと感じた。自分と同じ考えに浸っていると感じた。同じ種類の「ひとり」だと信じて疑わなかった。取り調べが終わって別れてからも、罪から逃れるべく列車を乗り継いでいる時も、ふたりの心は静かな喜びに支配されていった。やっと理解者が現れた。一度は離れたはずなのに、今もこうして隣にいる。自分を理解してくれるであろう存在が目の前にいる。嬉しくてたまらず、互いは互いを知ろうと話を重ねた。
そうして、実は違っていると知ってしまった。
一番肝心な部分が、全く噛み合っていなかった。運命はふたりを再会させ、同時にふたりを望まぬ別れへと導いた。
事情聴取は捜査一課が行うことになっていたため、ふたりを引き渡した時点で鉄道保安課の仕事は終了となった。カイルたちも帰宅してしまい、長い聴取時間を待ち続けるのはレックスだけになっていた。簡易調書の複写を貰い、留置所一階の応接広間の椅子に腰掛けて、深い夜の中、じっくりと読んだ。どんなに大好きな小説よりも時間をかけて、文章に目を走らせていった。やっとの思いで読み終わり、気づくと広間は無人になっていた。レックスは外に出ると、手近な公衆電話ボックスに入り発信する。出たのはアパートの隣人、エルシー・グリーンだった。
「ごめん、夜遅くに」
「仕事でしょ、仕方ないよ。レイ君なら、もう寝かしつけてあるから心配しないで」
「悪い、助かる。大変だったろ、あいつ結構変わり者だから」
電話口のエルシーの声が少し弾む。
「全然。すごくおとなしくて、しっかりしてる子だよ。でもだからって、ひとりにしておくのもどうかなと思って、私の部屋で一緒に寝ようかって聞いたんだ。そうしたら、勢いよく断られちゃった」
「お前なあ、あんまりからかってやるなよ。あいつだって男だぞ」
「うん、そうだね。ごめんなさい。あの子、あまり喋らないからさ、なんか気まずくなっちゃって」
「別に無理して話することないだろ。話すことがないんだったら黙ってればいいんだし。沈黙が嫌ならラジオでもかけておけばいい。それでも間が持てないなら、本でも読んでおけ。俺は大抵そうしてる。ただ隣にいてやるだけでも、レイは嬉しいと思う」
「さすが。お父さん」
「お父さんって言うな」
「だって親代わりになるんでしょ。出会ったその日から自分の部屋に住まわせるって勝手に決めちゃうし、私に向かっていきなりレイ君のこと、俺の息子とか紹介するし」
「息子に関しては冗談だっての」
簡単な連絡で済ませるはずだったが、話が盛り上がり通話はしばらく続いた。電話ボックスの中で受話器を片手に明るく笑うレックスとは対照的に、留置所付近の街並みは暗く、人通りも全くない。
「でもさ、レックスもレックスだけど、確かにあの子、レイ君も相当変わってる。いきなり見ず知らずの人の部屋に何事もなかったかのように住み始めちゃうしさ」
「ああ、まあな」
「何か理由でもあるのかなあ」
レックスが喋らなくなると、受話器も一瞬、音を発しなくなった。当然レックスにエルシーの表情など見えていない。しかしレックスは、エルシーのためらいを電話機越しに察していた。エルシーもまた、同じくだった。
「そっか」
「うん」
「私と同じ、か」
受話器から、小さくため息を吐く音が聞こえる。
レックスの顔から、笑みは消えていた。
「機関車が乗っ取られた事件の、第三の犯人を捕まえた日に、話してもらった。まだ、俺以外には誰にも教えてないらしいから、エルシーにも言えない」
「当たり前だよ。私も無理に聞いたりしない。レイ君本人から話してもらうまでは、単なる隣の部屋の男の子だって思うようにする。レックスが仕事で忙しい時は、私があの子の保護者になるよ」
「ごめん。本当に、ごめん」
「どうして謝るの。大丈夫、レイ君と仲良くなりながら、気長に気ままに待ってる」
「ありがと」
このまま話を終わらせて受話器を置くこともできたが、レックスはまだやめなかった。エルシーの優しい言葉の中に、気になるものがあったからだった。
「なあ、今さ、『私があの子の』何になるって言ったんだ」
「何って、保護者でしょ」
「保護者か」
ゆっくりと、レックスに柔らかな笑顔が戻っていく。
「うん、やっぱりこれが一番しっくりくる。俺はレイの保護者だ」
「お父さんでしょ」
「違う、保護者」
「それだとなんだか、よそよそしい感じがする。堅苦しいっていうか」
「いいんだ、これで。いけない、長話しすぎた。もう帰るから、切るぞ」
最後に「おやすみ」と言ってから、通話を終了する。
受話器を元の場所に戻し、電話ボックスを後にするレックスの足取りは軽く、ガス灯の暗い光が立ち並ぶバノック街路の夜には、ひどく不釣り合いだった。