「おい、起きろ」
夜行列車、第五車両の後方席。そこに腰を下ろす乗客のひとりから密かに放たれた呼びかけは、静かな寝息を立てて眠る隣の男を目覚めさせた。男は目に涙をためて、座ったまま大きく両手を上に挙げると、声を出しながら体を伸ばす。
「ああ、もうすぐ着きますか。すみません、起こしてもらってしまって」
「違う。この列車、乗っ取られたんだ。さっき男がふたり、先頭に立って銃で脅してきやがった」
寝起きのためか、まだ少しぼんやりとした表情を見せているその男は、話を聞くやいなやすぐに眠気を消し飛ばし、隣の席の乗客に前のめりになって近づく。
「本当ですか、それは。そいつらは今どこに」
「男の子を人質に取って、外の梯子を伝って車体の上に行っちまった。詳しい事情は分からねえ。車掌には何か言っていたが、俺たち乗客にはなんの説明もなかった」
「上、ですね。とにかく行ってきます」
男は言い終わる前に立ち上がっていて、すぐに車両の出口に向かおうとした。それを乗客のひとりが慌てて止める。
「待てよ。あんたが行ってどうなるっていうんだよ」
「どうにかします」
「やめとけ。警察が来るまでおとなしくしてろ」
「俺が、その警察官です」
男は上着の内側から警察手帳を取り出した。そこには男の氏名が刻まれている。中央部警察鉄道保安課所属巡査、レックス・ベイカー。顔写真と現在の男の顔とでは、年齢的な差異がほとんどない。
「本物か、それ」
「失礼な。これは単なる身分証明だけでなく、列車の特別乗車券としての役目も果たす歴とした本物です。警察関係者にしか貸与されませんし、偽物を複製することもそうそうできるものではないんですよ」
呆気にとられる乗客たちを前に、レックスは上着を着直すと、手持ちの懐中時計で現在時刻を確認する。
「それはともかく。この夜行列車は南部荒原の近辺を走行中ですね。たとえ応援が駆けつけてきてくれるとしても時間はかかるだろうし、そもそも状況を考えれば唯一助けを呼べる列車無線の使用はその強奪犯人たちによって監視されているはずです。この場にいる人間がなんとかしなくてはなりません。人命がかかっているのなら尚更」
「なんか不安だな。今の今まで眠りこけてたし」
先ほどの隣の乗客が冷めた様子で割りこんだ。レックスはばつが悪そうに口を尖らせる。
「し、仕方がないでしょう。出張からの帰りで疲れてたんだから」
「銃が二発もぶっ放されてたってのに、気づきもしねえってのはな。普通、飛び起きるだろ」
「発砲、したのですか。拳銃は、ふたりとも所持していましたか」
「ああ。だが撃ったのは二発とも、ふたり組のうちでかいほうだ」
「もうひとりは、撃っていないと」
「そう。やけにひょろ長い野郎だった」
「二対一。しかも相手は銃を持っている」
自分の置かれた状況をとりあえず口に出してみたが、車内の喧噪がさらに広がるだけだった。レックスはそんな不安の渦の中で咳払いしたのち、やや高めの声を張り上げる。
「皆さん、落ち着いてください。これから車上に向かいます。騒がず、待機をお願いします」
手短にそう告げてから、レックスは第五車両の出入り口へ走った。
夜の荒野に出たレックスを、激しい逆風が襲う。車体の鉄と土埃の臭いがひどく強い。強奪犯に命じられたのか、機関車は普段より速度を増している。風に足を取られないよう注意を払いながら、レックスは錆にまみれた鉄梯子を伝って第五車両の上に登り、進行方向を見据えた。
夜は、すでに更けている。闇を等しく流しこんだかのような漆黒に、満天の星が散る。地に降りる光は弱い。荒涼は、乾いた土と背の低い枯れ草ばかりで構成されている。その中を、機関車は走っている。連なる車体が、がたがたと揺れながら鉄路を食うかのように走る。
機関車は、荒野では独りだった。底抜けに強い客車の照明が次つぎ車窓から外に逃げていく。切り離された光は走る速度に比例して数を増し、鉄路の前後、ひいては機関車全体を照らし出している。それはまるで、大地を染めゆく夜を曲線状に切り裂く一本の線のようだった。機関車両の上に許可なく立つことは本来ならば規則で禁止されており、レックスはこの光景を見るのはおろか、爆走する列車の上で犯罪者を追いつめるのもまた、生まれて初めてのことだった。
第五車両上後方の一角を陣取る強奪犯は、車内の客の証言通り巨漢と細長い体の男ふたり組だった。ふたり共、夜に紛れるかのような暗い色の上着を着こみ、手には拳銃を所持していることが、辛うじてレックスにも確認できる。客車から漏れる光のおかげで視界は概ね良好だが、肝心のレックス自身の視力が、あまり良くない。
それでもレックスはふたりの男の陰に隠れる少年の姿を見逃すことはなかった。巨漢の上着の裾を掴み、ただじっとレックスの顔を見つめている。レックスは自分が悪者でないことを伝えるために声を上げようとしたが、直前、自身に銃口が向けられていることに気づき、出かかった声を押し留める。
「なんだ、お前。くたばりに来たのか」
巨漢が拳銃を軽く上下に振りながら小馬鹿にしたように言う。レックスは吹き荒れる風を背に受けて、先ほどと同じように警察手帳を掲げてみせた。
「警察だ。今すぐ車両を降りて、その子を解放しろ」
細身の男が目を見開く。まさか警察がこの列車に乗り合わせているとは思わなかった、とでもいうような表情だった。巨漢は違った。機関車の走行音に負けないほどの大きな笑い声を夜空に向かって張り上げると、少年の頭を乱暴に掴み自身の前方に突き出した。
「こいつを解放しろ、ね。お前、何か勘違いしてんじゃねえのか。こいつは自分から俺たちについてきやがったのさ。笑っちまうだろ」
「ふざけたことを言うな。そんなわけがない」
「あるんだよな、それが。きっと、こいつも俺たちと同じことを考えているのさ」
レックスには視認できていないが、少年の目つきは虚ろだった。怯えているのではない。もはや、感情そのものが失われてしまっているかのようだった。
少年の様子を気にかけつつ、レックスは隙を見せないよう、巨漢を睨みつける。
「同じことを考えている、というのはどういう意味だ。お前たちの目的を教えろ」
「簡単だ。俺たちはこの馬鹿でかい鉄の馬に恨みがあるんだよ」
巨漢ではなく、細身が発言した。鋭く、それでいてややしゃがれた声だった。
「お前も国家警察の端くれであるというのなら、忘れたとは言わせないぞ。あの事故で俺たちは家族を失った。こんなものがあるからだ」
細身は憎悪をこめて片足を車体に擦りつける。
「この機関車に乗っている連中にも、息子と同じ絶望を味わってもらう」
「だからって、この夜行列車を乗っ取ったのか。関係のない人間まで巻きこむな」
細身は、野犬の発する低い唸り声のごとく、レックスに言葉を差し向ける。
「あの事故に全く関係のない人間が、この国にひとりでもいると思うか」
レックスははっと息を呑む。
その瞬間を狙い、それまでおとなしく黙っていた巨漢がレックスの足めがけて銃弾を放った。弾は逸れたが、右足首付近わずかの距離を掠めていき、レックスに大きな動揺を与える。危険を回避しようとする本能によりレックスが思わず体勢を崩した時、折り悪く鉄路が急曲線を描く地点に差しかかり、列車全体も進行方向を大きく左にずらした。本来ならば速度が落とされるはずだが、非常事態下の精神的圧迫を受け続ける運転士はこの時、錯乱状態に陥っており、適切な減速操作が間に合わずにいた。
車体が角度を作る。
レックスの体が、列車から離れる。
けたたましい金属音とともに列車は平衡を取り戻し、何事もなかったかのように走行を続ける。車体の上にレックスは立っていない。側面の窓の出っ張りに両手で掴まり、そのまましがみついているのがやっとの状況に置かれていた。強奪犯のふたりは少年を抱えながらもどうにか踏ん張ったようで、列車にへばりつく格好のレックスを見下げる形となっていた。
「へへっ。良い眺めだぜ。蹴り落としてやる」
巨漢がレックスの元へ歩を進める。細身と少年はその光景をじっと見つめるだけだった。細身はもちろん、少年も、今まさに転落しようとしている人間のことを心配したり、助けようとしたりはしない。無感情を装い、ただ目の前の出来事を傍観する。
巨漢がレックスの左手を足で踏み潰した。レックスは声にならない悲鳴をあげる。指の関節に血が滲み、巨漢の靴底をわずかに汚す。やがて痛みに堪えかねたのか、左手は放たれる。巨漢はレックスの転落を確信した。
左手は巨漢の足を掴んだ。
巨漢が思わず飛び上がるほどに、その力は強かった。レックスはそのまま巨漢の足を梯子代わりに車体の上へ戻りつつ、一瞬再び空を切った片足を振り回し、巨漢の横っ腹に命中させる。巨漢も銃で応戦しようとするが、誤って自身の肉体を撃ってしまうかもしれないという潜在恐怖には逆らえない。レックスに銃をはたき落とされ、二発目の回し蹴りを後頭部に食らい、あっけなく気を失った。
「これで一対一だ」
レックスがそう声高に言い放ったのもつかの間のことで、細身が今度こそレックスの息の根を止めるべく右手で銃を構える。引き金を引く音は機関車の汽笛にかき消される。
銃声も響くことはなかった。
細身の銃撃は、少年のか細い片手によって妨げられた。なんのことはない、ただそっと銃身に手をあてがうだけの行為だった。しかし、それまで微動だにしなかった少年の突然の行動に、細身は気を取られざるを得なかった。少年は、細身の息子に顔立ちがよく似ていた。
直後、固く握られた拳による一撃が細身を車体に叩きつける。細身も意識を失ったのか、そのまま動かなくなった。レックスは上着の内側から手錠をふたつ取り出し、巨漢と細身にそれぞれ装着させる。機関車強奪犯二名は、レックスによって逮捕された。
「ありがとう。おかげで助かった。でも、危ないからこんなことは二度とするな。って、こんなこと二度とあってたまるかって話だよな」
レックスは少年に話しかけた。つい先ほどまで命に危機が及びかねない肉弾戦を繰り広げていたというのに、レックスの口調は気さくだった。少年の恐怖心を少しでも和らげてやろうという、彼なりの気遣いだった。
少年は、レックスの方を見ようとしない。夜に沈む荒野の遠くから目を離さない。やがて、ぽつりと呟く。
「近づかないで。僕に」
機関車の轟音が響き渡る中、少年の言葉は不思議なほど鮮明に、レックスには聞こえる。
「あなたまで、死ぬことはないよ」
少年は両足を浮かせた。
もしレックスが少年の左腕を掴んでいなかったとしたら、少年は大地に全身を打ちつけられ、間もなく生き絶えていただろう。少年はそれまでの態度が嘘のように激しく抵抗した。レックスは少年の左腕に必要以上に力を加えないよう気をつけながら、ゆっくりと少年の体を引き上げた。レックスが手を離すと、少年は抵抗を諦めてその場にへたりこんだ。レックスもまた、速まる心臓の鼓動を静めるために、同じ手で胸のあたりを押さえこむ。あまりに突然の出来事だった。
「警察官の目の前で跳び降り自殺とか、度胸あるな、お前」
レックスがやっとの思いで口にした皮肉に対して、少年は何も答えなかった。うつむいていて、顔もろくに見せなかった。
バノックの街を、陽の光が照らす。
機関車強奪事件の犯人二名の連行を終えたレックスは、その後の手続きを別の日勤者に代行してもらい、ひとり自宅のアパート「アップル・ヤード」に戻ると、泥のように眠った。次に目を覚ましたのは朝の八時で、彼の出勤時刻をとうに過ぎていた。
レックスは慌ただしく身支度をして、勢いよく二〇一号室を飛び出す。同時に隣の二〇二号室から女性が、こちらは落ち着き払った様子で出てきていた。粗雑に結ばれたネクタイをぶら下げているレックスを見ると、軽く目を細める。
「三回目」
「何が」
「遅刻。始業七時でしょ。今月三回目だね、って話。そろそろマイヤーさんに機関銃で蜂の巣にされるんじゃないの」
「ざけんなっ、んなことあってたまるかよ」
靴の踵を引っ張りながら、レックスは女性に目もくれない。
「まあ、本当にありそうなのが怖いけどな。そっちは今からか」
女性は自分の部屋の鍵を閉めながら答える。
「うん。昼前までは在庫整理だから、お店は休み」
栗色の長髪をなびかせる女性の笑顔は、少しだけぎこちない。自身の手首のあたりを指さして、レックスに言う。
「シャツの裾」
レックスの上着の下のシャツの袖のボタンが、片方のみ外れかかっていた。レックスの動作からますます落ち着きが失われていく。
「おおっ、ありがと。じゃ、先に行くぞ」
「いってらっしゃい」
女性が見送る中、レックスは裾のボタンと格闘しながら、アパートの階段を音を立てて駆け下りていき、中央駅に向かって走り出した。
住宅街を抜けて、中央街道に入る。文字通り、中央駅へ続く道だ。空はよく晴れている。街路樹の葉が作る不規則な影の模様が、舗装された石畳の上で揺れている。レックスはその模様の中にひとつひとつ足を踏み入れていくようにして歩を進めた。
中央駅は緋色の古煉瓦で造られた建物で、バノックの街において圧倒的な存在感を放っている。人の出入りが著しく多い。レックスと同じ背広姿の男に、学生、外套の女、旅行鞄を引く老夫婦など、この日も駅の構内は多くの乗客であふれていた。
レックスは警察手帳を片手に駅員の敬礼を受けながら改札を抜け、人の波に乗る。目的地の最寄り駅行きの列車乗り場にたどり着いたのは、アパートを出てからの時間も含めて二十数分が経ってのことだった。レックスが古びた柱時計を睨みつけているうちに、列車の到着を告げる放送が鳴り響き、ほどなくしてそれは姿を現した。
鉄製の車体は、レックスの身長など優に超えるほど縦にも高い。頭から煙を立ち昇らせ、乗車口前でゆっくりと時間をかけて停止すると、軋む扉を開き、大量の人間を吐き出して飲みこむ。
レックスは機関車に乗った。
座ることはできない。面積の狭い扉の窓のあたりに寄りかかり、外を眺める。列車の中を見ていると、乗り物酔いを起こしてしまうからだ。窓枠のむこう側で流れる街を目で追いかけるのが、レックスの列車移動時間中における習慣だった。バノックの街並みは、建物がどんなに明色であっても、空がどんなに快晴であっても、どうしてもどこか暗い色合いに見えてしまう。レックスがいつ目を向けても、それは変わらなかった。
中央部警察署には、中央から三駅ほど通過して到着する。それほど高い建物ではないが、入り口上部に蒸気機関車の正面図を捉えた大きな浮き彫りが掲げられている。レックスは木製の階段を駆け上がり、二階、鉄道保安課の事務所の扉を開けて中に入った。
「おはようございます」
挙手に明るい笑顔を添えて、元気良く挨拶したレックスの額に、四十五口径が突きつけられる。この国の警察官が所持する一般的な拳銃を手に持つその人物は、長い茶髪を後ろでまとめた、彫りの深い顔立ちの女性だった。背がレックスよりやや高い。そのままの体勢と表情で固まるレックスを前に、女性は高圧的な態度を崩さない。
「今度遅刻したらこの場で銃殺すると言ったはずだ。じゃあなレックス、お前との毎日は少しも楽しくなかったぞ」
「い、いやいや。落ち着きましょう、マイヤーさん。ね」
「国の動脈の保守を担う鉄道保安課の人間が、月に三回以上も寝坊で出勤時間すら守れずにいて許されるとでも思っているのか」
「だ、だって、出張からの帰りだったし、それに昨日の事件知ってますよね。俺大健闘だったんですから。ほら、その分の疲れが出ちゃったというか」
「言い訳をするな」
拳銃の引き金に、人差し指がかけられる。
「ちょい待ち。それぐらいにしといてやってくださいよ、マイヤーさん」
事務所の奥から歩いてきたのは、整った金髪の男と、おどおどした様子で男の後ろに隠れる、眼鏡をかけた小柄な女性だった。レックスはふたりを発見するなり、女性と同じように男の後ろに回りこむと、顔だけ男の右肩のあたりからのぞかせる。いつからなのか、目が潤んでいた。
「カイルっ、助けてくれ。マイヤーさんが俺を銃で撃ち殺そうとする」
「そんなわけあるかよ。マジに銃構えるマイヤーさんもマイヤーさんだけど、しょっちゅう遅刻するお前もお前だろ。なあ、ジェイミー」
呼びかけられた眼鏡の女性は、レックスとは反対側、金髪の男の左肩のあたりを両手で掴み、眼鏡のレンズ越しに拳銃の持ち主の顔色をうかがっていた。
「と、と、とにかくマイヤーさんは銃を下ろしてください」
「何言ってんだ。模造に決まってるだろ。ね、マイヤーさん」
「おっと、すまん」
スカーレット・マイヤーは、慣れた手つきで拳銃を自らの懐にしまった。カイル・フロイド、ジェイミー・エイムズ、レックス・ベイカーの三人は、そのあまりに自然な一連の動作に対し引きつった笑いを返すのがやっとだった。
「まあ、銃殺はさすがに冗談だ。今後もこういったことが続くようなら、簡易だが始末書を提出してもらうことになる。心しておけ」
「冗談になってないっての」
「何か」
「いえ、何もありません。レックス・ベイカー巡査、以後気を引き締めて業務に当たらせていただきます」
「ふん」
レックスは言い終わるなり、即座に敬礼する。しかし、目上の人間がその場からいなくなると、硬直していたレックスの体と表情は一気に緩む。初めてではないやりとりだった。カイルは、ため息混じりにレックスの肩を手で叩く。
「さて、レックス。お説教も無事終わったってことで、早速気を引き締めて業務に当たってもらいたいんだが」
「ちぇっ、こんな時に限って先輩面かよ。何」
「決まってんだろ、昨日の機関車強奪事件だ。ありがたいことに上のお偉いさんからいくつかご質問を預かってる」
レックスはジェイミーから数枚の捜査資料を受け取った。先ほど緩んだばかりの顔を瞬時にしかめて、目を通していく。
「ふたり組の強奪犯ですが、捜査一課で取り調べが進んでいるそうです。といっても、双方黙秘を続けておりまして、詳しい犯行動機などは未だ不明です」
「お前が聞いたのは確か『この機関車に乗っている連中にも、息子と同じ絶望を味わってもらう』だったか。要するにあれだな、愛しい我が子がいなくてもお構いなしに回り続けるこの鉄道国家に、抑えようのない怒りを覚えたってわけかね」
「あの事故絡みでしょうか」
「だろうなあ」
「けっ」
レックスは露骨に機嫌を損ね、捜査資料を近くの机に投げつけた。ばらばらに散らばった資料はジェイミーの手により、角を揃えて丁寧にまとめられていく。
「続けるぞ。そのふたり組だがな、両方とも一丁ずつ拳銃を所持していた。出所に心当たりはないか」
「あるわけねえだろ」
「だとしたら、過去の未解決事件を洗い直す必要があるかもしれませんね。消費弾数を見る限りでは」
「そんなの、それこそ捜査一課様が手際よくやってくださるだろ。確かにあのふたりをとっ捕まえたのは俺だけどよ、調書作成と事後処理もろとも一課に押しつけてきたから。俺たちはスリとか痴漢とか迷子とかの相手してればいいんだよ」
レックスは事務机の傍にある椅子に足を投げ出す格好で腰を下ろし、頭の後ろで手を組む。カイルはジェイミーと顔を見合わせると、やれやれと言わんばかりに首を左右に振る。しかし話をやめようとはせずに、机に手をつくと歯を見せて悪戯っぽく笑みを浮かべた。
「よし、分かった。だったら我が保安課にふさわしい仕事をお前に与えてやる」
「ほう。どんなだ」
「今、言ったな。俺たちは迷子の相手をしていればいいって」
「迷子がいるのか」
「ああ、いるね」
「どこに」
「小会議室。ちなみに、ただの迷子じゃない」
「どういう意味だよ」
カイルの目配せにより、ジェイミーが説明を引き取った。
「昨日の事件があった夜行列車に、男の子がひとり無賃乗車していました。おそらく、他の背丈の高いお客さんの影に隠れて改札をやり過ごしたのだと思われます」
「思われますって、その子から直接聞けばいいじゃんか」
「それがですね、私とカイルさんとで、なるべく優しく話しかけてはみたんですが、一言も喋ってくれないんです。まともに声を聞けていません」
「え、じゃあ何、俺たちはこれから名前も素性も分からない謎の少年の相手をしなきゃならんってのか」
「いや。全部が全部、謎ってわけでもないぞ。お前はその子に会ったことがあるはずだ。それどころか、その子の命を助けている」
先ほどからぱたぱたと動いていたレックスの両足が止まる。短く刈った後ろ髪を触っていた両手も、ゆるゆると膝の上に移動する。
「ああ。あいつか」
「そう。お前の目の前で車上から跳び降りようとしたっていう、あいつだよ。たぶん、お前としかまともに会話する気がないだろうぜ」
小会議室には一筋の朝陽が射しこんでいた。真ん中にひとつ置かれた机の上の大部分を明るく照らしている。机が使われた形跡はほとんどなく、紙や本などが散らばっていない代わりに、埃は多い。部屋の奥の窓からの光が、よりはっきりと浮かび上がらせている。
窓を背に机の前に腰を下ろす少年は、影にその身をうずめていた。レックスが部屋の灯りを点けてようやく、視線を机上に落とした顔が明らかになる。生気がない。覇気もない。本来ならば美しいであろう金の瞳も濁り、目元に浮かぶ隈と相まって余計に暗い印象を与えている。レックスは最初、ぎょっとしたが、わざとらしく咳払いをひとつしてから扉近くの椅子に座り、少年と対面する。とはいえ、少年はレックスに目もくれず、眉ひとつ動かさない。
先に口を開いたのはレックスだった。まずは名前、出身地、家族や友人についてなど、思いつく限り質問を投げかける。反応は得られないと思われたが、少年はすんなり答えを返した。
「レイ、です。僕の名前。南部のペンドリオールという町から来ました。家族は、いません。友達もいません」
たった今まで静物状態だった少年が突如声を発したという衝撃と、発された言葉の内容の後味の悪さとで、レックスは少しの間思考を停止した。脳が言葉を理解しようとし始めると、その働きと連動するかのように、再び少年レイを質問責めにする。何故(なぜ)、家族や友人がいないのか。何故、遠い南の田舎町から運賃も払わず夜行列車に乗り、中央に来ようと考えたのか。何故、機関車強奪犯に抵抗することなくされるがまま巻きこまれたのか。何故、最後には強奪犯の邪魔をしたのか。
「それから。何故、死のうとしたのか」
レックスは無意識のうちに自らの声量を落としていた。あまりに急かしすぎではないか、少年の機嫌を損ねてしまうのではないかという懸念の表れだった。そんなレックスの心を読んだかのように、レイは少し黙る。濁った目は未だレックスの顔を捉えていない。
「イーグルの機関車って、知っていますか」
しばらくして、レイが沈黙を破った。消え入るような小声だったが、レックスはその言葉を確かに耳にし、また、動揺した。今度はレックスが押し黙ってしまい、返答するまでにレイのほぼ倍の時間をかけた。
「あ、当たり前だろ。俺、一応、警察官なんだぜ。知らないわけないじゃないか。というか警察官じゃなくても、誰でも知ってるよ」
「造った人の名前は」
「もちろん。オズワルド、オズワルド・イーグルだろ。『この国に血を通わせた男』とかなんとか言われてるっけ」
「そうです。あの人は、僕の恩師です」
「そ、そうなのか」
「今はもういませんが」
「う、うん」
重たい空気が、レックスとレイの上にのしかかる。空気を作っているのは彼らであったし、彼ら自身、自覚もしていたが、取り除くことはできなかった。レイに至っては、取り除こうと思ってもいない。
「もう一年前、になりますか。北部渓谷の機関車転落事故に巻きこまれて、死にました。刑事さんたちが、警察がもっとちゃんと働いていれば、あんなことは起きなかったはずですよね。僕のほうこそ聞きたいことが山ほどあります。刑事さんがそれに答えてくれるなら、僕も刑事さんの質問に答えます。だから教えてください。あれは、何故起きてしまったんですか」
「ちょっと、待て」
「待ちません」
「待てってば」
「刑事さん」
レックスは言いようのない息苦しさに逆らい、レイが声を荒げようとするのをを掌で制止していた。レイは素直に口を閉ざし、再び石像のように生気をかき消す。レックスは冷や汗をひとつ垂らしつつ、一度目を閉じて大きく息を吐いた。レイを、ひいては己の心を静めようと努める。
「ごめんな。俺が所属しているこの鉄道保安課は、大規模な列車事故とか、そういったものは取り扱わないんだ。ただ、あれに関しては特例としてここからも捜査員が何人か駆り出されたけど、俺に声はかからなかった。まだ見習いみたいなものだしな。だから俺はあの事故の捜査に加わっていないし、捜査がどのくらい進行してるのかも分からない」
「一年経っても、発生原因が特定されないほどにですか」
「うん、この話は一旦よそう。今は、これからのことを考えないといけない」
「残酷な話だからって、ためらわないでください。僕なら大丈夫」
「レイ」
僕なら大丈夫ですから、というひと繋ぎの語句を中断させたのは、少年の名を呼ぶ声だった。レックスが、自然と口に出していたのだった。
「終わりだ。外に出るぞ」
やや威圧的にそう告げて、レックスはレイの手を取った。レイの左手は、ほのかに温かい。レックスはそうやって、レイの体に血が通っていることを確かめた。
この少年は死んでなどいない。
本当は死ぬ気もないはずであるということも。
事務室には、ふたりの様子を心配してかカイルとジェイミーがたむろしていた。レックスがレイを引っ張って部屋から出てくると、待ってましたとばかりにふたりの前に立ちはだかる。
「レックス。さっき南部警察経由で、その子の保護者から連絡があった。ペンドリオールって町の」
「ああ。本人から聞いた」
「孤児院から」
「えっ」
レックスは思わずレイの顔に目をやる。秘密がばれてばつが悪い、といったような反応は特には見られない。
レックスの動揺とレイの無反応に構うことなくカイルは続ける。
「ペンドリオール孤児院のレイ、だな。電話口の女の人、すごく心配してたぞ。無賃乗車の件も向こうに任せることにするし、付き添いの人もこちらで手配するから、とにかく早く南に帰りなさい」
「嫌です」
極めて明瞭な一声だった。カイルとジェイミーは、まさかここまではっきり拒否されるとは思っておらず、ふたり揃って驚いた。しかしレックスは、レイが南に帰るつもりが毛頭ないことを心のどこかで察していた。
「お金を払わずに列車に乗ったことは謝ります。機関車乗っ取りの事件のことも、いろいろと迷惑をかけてしまいました。本当にごめんなさい。だけど、僕は孤児院には帰りたくないです」
「どうしてだい」
間髪入れずにカイルが聞く。柔らかな笑みはそのままに、眉根を寄せている。
「言いたくないです」
「それまた、どうして」
「言いたくないです」
「なめてんのか」
「カイルさん、落ち着いて」
ジェイミーは苛立つカイルをたしなめるのに手一杯で、レイに言葉をかけようとしない。一瞬だけレイと目を合わせかけるも、すぐ露骨に逸らしてしまう。眼鏡の奥の瞳が狭まっていく。
目を逸らされたレイは、昨日の夜行列車の上で見せた、感情のない顔を作っていた。ふらりと、まるで風に吹かれた木の葉のように歩き出す。するとそこへ、レックスが立ちふさがった。
「帰らないってことは、中央に残るってことか」
「はい」
「どのくらい」
「目的を果たすまでです」
「長期間になりそうか」
「刑事さんが先ほどの質問に答えてくれれば、少し短くなります」
レイの冷ややかな態度の棘は、レックスには刺さらない。レックスはおもむろにしゃがんだ。レイにぐっと顔を近づける。戸惑うレイに向かって、語りかける。
「どっちにしろ、その間どこで生活するんだ。食い物はどうする。学校は。それともその年で働くか。また、どこかの施設にでも入るのか。そもそも、お前ひとりで生きていけるのか」
「どうにかします」
「まさか路傍で寝起きするとか言わないよな」
「そうせざるを得なくなったら」
「しなくていい」
レックスは、レイから決して目を離さない。まるで、お前をどこへも逃がしはしないと言っているかのように。
「俺のところに来い」
瞬間、上擦った声がふたつ重なった。カイルとジェイミーの声だった。表情も激しく崩れ、ふたりは共にレックスの至って真剣な顔へ視線を飛ばす。次にレックスが何か言う前に、息を合わせるようにしてカイルの反論が始まる。
「なあ、レックス。どう考えても今は冗談言ってる時じゃないと思うんだが」
「冗談じゃねえよ。俺、本気だぞ」
「だとしたらお前、もう警察辞めろよ。常識で考えろ。家出少年が帰りたくないってごねるからって、自分で引き取ろうとする馬鹿が警察官やるな。完全に勢いでもの言ってるだろ」
「勢い、あるな。確かに。でも、ちゃんと考える。これから」
「これからかよ」
「レックスさんのお家って確か、ひとり暮らし用のアパートでしたよね。男の子ひとり分の余裕はあるのですか。その、生活に関して」
「たぶん。手続きとかいろいろ細かいことはおいおい進めていくとして、とりあえず衣食住をどうにかすればいい。住むところ、もちろんよし。食うもの、まあよし。着るものは、買えばよし、だ。ああそうだ、なんなら俺が仕事してる間は、こいつに家事とかやってもらおうかな。うん、考えようによってはあれだな、小さな家政夫をただで雇ったと思えばいい」
「頭が痛くなってきたぞ」
カイルはわざとらしく両手で頭を抱えこんだ。ジェイミーはどうしていいのか分からないといった様子で、おろおろとレックスとレイを交互に見比べる。当のレイは困惑するでも、拒絶するでもなく、何か思いつめたように虚空を見つめるばかりだった。
「おはよう、諸君」
脳天気な声色が、強ばった事務室内の雰囲気を幾らか和らげた。やってきた声の主は初老の男性で、口元にこしらえられた白髭にこそ威厳の一片は感じられるものの、にこにこと少年のような笑顔がそれを見事に打ち消している。
「おはよう、じゃないですよ。おじいちゃん」
「あのね、カイル君。可愛い呼び方をしてくれるのはとっても嬉しいんだけど、ここは職場なんだから、できれば役職か名前って呼んでほしいな。そもそも私はまだ、おじいちゃんと呼ばれるほど歳を取っていないし、一応、この中で一番偉いんだからね」
「そいつは失礼しました。でも、偉いなら偉そうにしてもらわないと。朝からそういう気の抜けた挨拶をされると俺らも気が抜けるんですよ」
「でも、実際に偉そうにしたら煙たがるでしょ」
「ええ、まあ、そうですけど」
「もういいよ。で、その男の子がどうかしたの」
「俺が説明します」
レックスは力強く言い放つと、鉄道保安課の最年長者であるクラーク・ロウに、レイの事情を一から話した。レックスの話に途中、口が挟まれることはなかった。聞き手は室長席の椅子に座ったまま、静かに目を閉じているばかりだったが、口元には依然として笑みが残っていた。レイを引き取ることまで含めて、レックスがすべてを話し終えると、椅子の肘掛けの先端を指で数回なぞる。彼が何か考え事をする時に見せる仕草だった。
「いいんじゃない」
再び、カイルとジェイミーの上擦り声が同時に響き渡る。発言した本人は気にも留めずに立ち上がり、レイの傍らへ歩み寄ると、レックスではなくレイを見ながら続ける。
「もちろんこんなこと、前例はないけどさ。でも我が国の警察の規則に、孤児を預かってはならない、なんて事項はないもんね。今後、業務に差し支えなく彼の保護者を務められるというなら、私は構わないよ。私より上の面倒な人たちが何か言ってくるかもしれないけど、というか言ってくるだろうけど、そのへんはほら、私が丸めこんでおくからさ」
「ありがとうございます」
「うんうん。その代わり、今度おごってよ。酒の旨い店を見つけたんだよね」
「いや、俺、酒はまったく飲まないので」
「おや、そうだっけ。それならボトルをさ、一本だけでいいから買ってくれないかい。うんと高いやつ、とまでは言わないから」
まるで子が親に玩具をねだるかのような一連の応酬に、カイルとジェイミーはまた顔を見合わせて、間もなくすべてを諦めた。上司が認可する以上、レックスがレイを引き取ることは、もう決定したようなものだった。
「レイ君。もし何かあったら私に言ってくれ。私にできることなら力になるよ」
レイの頭が大きな手でさすられる。レイは相変わらず伏し目がちではあったが、かすかに首を縦に振った。その首肯は、鉄道保安課の人間に対する感謝の意でもあり、レックスに対する改まった挨拶でもあった。次いでそれは、言葉でも表された。
「これから、よろしくお願いします」
夕刻、レイはレックスの後ろに着く形でアパート「アップル・ヤード」へ向かった。駅で列車を待つひとときも、列車の中で揺られている間も、レイはレックスとほとんど口をきかなかった。レックスが時折思い出したように他愛ない話を振るが、はい、とか、そうですね、などといった簡潔な一言で会話を打ち切ってしまうので、アパートへと歩く道ではただひたすらに静かだった。ふたりの背を押す夕陽の橙色が、静けさと気まずさを少しばかり際だたせていた。
「ほら。今日からここがお前の帰る家だ」
アパート「アップル・ヤード」は小規模な二階建てで、バノックの街の郊外の片隅に、ひっそりと隠れるように存在している。清掃があまりいき届いておらず、ふたりが足を乗せる階段には葉屑が何枚もへばりついていた。
「あ、おかえり」
レックスがレイを連れて二階の廊下に出ると、今朝レックスのシャツの裾のボタン外れを指摘した女性が彼女自身の部屋の扉の前に立っていた。今まさに鍵を開けて部屋に入ろうとしていたところだった。
「よう。お疲れさん。機関銃は出てこなかった。拳銃で済んだぞ」
「うん、って、ちょっと待った。その子は誰」
発見されたレイは、素直にレックスの前に歩み出て自分の姿をよく見せる。重たく下がっていた瞼をぐっと持ち上げて、女性の顔をまじまじと見つめる。女性に見つめ返されると、目を泳がせた末、明後日の方向へ視線を逸らす。そんなレイの様子に気づいていないレックスは、まるでこれから伝える話が誇らしいものであると示すかのように、両手を腰に当てた。
「俺の息子。ただし今日から」
数秒間、アパートの廊下に沈黙が流れる。
「今日から、って何」
「冗談、冗談だって。隠し子とかじゃないぞ。いろいろあって、しばらくの間俺が面倒見ることになったんだ」
レックスは女性に事の顛末を聞かせた。レックスが機関車強奪犯を逮捕した経緯に関しては、圧倒的な実力差だった、などと若干の誇張が加えられていたものの、説明するレックスの表情と声は至って真剣だった。
「何考えてんの」
だからこそ女性は、話し終えたばかりのレックスに間髪入れず鋭い一声を投げかけた。
「そんな簡単に決めるようなことじゃないよ。大体、この子がいた孤児院の人たちが納得するはずないでしょ、こんな話」
「あ、うん。確かに納得はしてなかったな。でも後でちゃんとこっちから連絡入れて、了承はもらったよ。『本人が帰るのを嫌がっているのなら仕方がない』だってさ。びっくりするぐらいにあっさり引き下がられてさ、なんか、笑っちまったよ」
「笑い事じゃないでしょっ。生活のこともそうだし、このくらいの歳の子なら学校にも行かせないといけないじゃない。手続きとかどうするつもりなの」
「学校か。ま、レイが行きたいって言うなら考えるし、行きたくないって言うなら考えない。それでいいんじゃないかな、と」
「警察官の言葉とは思えないんだけど」
「そりゃこいつとはこの仕事がきっかけで出会ったけどさ。レイを引き取ってから先のことは俺の問題だ。警察官としてじゃなく、ひとりの人間としてものを考えるよ」
「馬鹿。無計画馬鹿」
「馬鹿とはなんだ。単なる隣人に、そこまで言われなきゃならん筋合いはないぞっ」
言ってレックスは、まずいことを口走ってしまったと後悔し、言葉を止めた。女性も一旦怯むが、数度首を横に振り、再びレックスを責める。
「ともかくね、急すぎるんだってば。そもそも、この子だって本当は嫌がってるんじゃないの。なのにレックスだけで勝手に決めていきなりこんなところまで連れてきちゃって」
「僕が」
ひどく緊張した発声だった。
平行状態だったレックスと女性の視線が、ほぼ同時に降下する。視線の交点には、毅然とした眼差しで女性を見上げるレイの姿があった。
「僕が刑事さんのお世話になるって、自分で決めて、ここにいるので、大丈夫です。刑事さんは何も悪くありません。むしろ、良い人です。僕のわがままを聞いてくれたから」
レイは改めて直立する。女性もつられて、屈みがちだった姿勢をまっすぐに正す。
「ペンドリオールの町から来ました、レイといいます。よろしくお願いします」
「え、あ、はい。えっと、二〇二号室に住んでいます、エルシー・グリーンです。こちらこそ、よろしく、お願いします」
戸惑いを持ちあわせたままだったので、エルシーの自己紹介はややたどたどしいものになった。それにつけ入るかのように、レックスはレイの背を押して、そそくさと二〇一号室へと逃げこもうとする。
「そんじゃレイ、挨拶も済んだし、そろそろ部屋に入ろうな。おっかないお姉さんだったな」
「ちょっ、ちょっとレックス」
扉の閉まる音を最後に、エルシーはひとり廊下にとり残された。呆然とするばかりだったが、やがて怒り出し、同じく部屋の中に消えていった。
アパート「アップル・ヤード」の一部屋は、ひとり用として決して狭くはない広さだが、レックスが住む二〇一号室は脱ぎ捨てられた服や読んでそのままの新聞紙などで散らかっていたために、足の踏み場が少ない。窓から射しこむ西日も、生ごみを包んだ袋を照らしていたのでは少しの美しさもない。
「新しいベッドを買うまでは、俺は長椅子で寝るかな。って、その前に新しいベッドを置く場所を確保しなきゃならんわけだけど」
「僕が長椅子で眠ります」
「俺を誰と心得る。寝床は選ばない職種だぞ」
部屋を見渡すレイは、書き物専用の机のすぐ横に大きな本棚があるのを目に留めた。四段すべてにぎっしり本が並べられている。
「ふっふっふ。気づいてしまったか。実は俺って読書家なんだよね。こう見えて」
レックスは棚から適当な一冊を取り出して意味もなく表紙をめくり、得意げに目を走らせる。レイはそれを無視して、並べられた本の背表紙を順に見ていく。
「旅行記とか、冒険小説ばかりですけど」
「なっ。い、いいんだよ。好きなんだから、こういうのが。馬鹿にすんなよな」
「別に、馬鹿にしているわけではありません。僕も本を読むのは好きです。これ、今度読んでもいいですか」
「許可なんて取らなくていいよ。本だけじゃなくて、食い物も勝手に食っていいし、ここにあるものは全部お前の好きに使ってくれていい。あ、いや、一部使われると困るものもあるな。常識の範囲内で頼む」
慌てふためくレックスを前にレイは、警戒するような目つきをはっきりと見せていた。
「刑事さん、そろそろ教えてください。僕なんかを引き取ろうとしたのには、何か理由があるんですよね。でなきゃこんなの、あり得ない」
「僕なんか、って言うなよ。ま、座れ」
レックスは手の中の本を元の場所に戻し、レイを椅子式の食卓に就かせた。卓上には、まだ食べるものが何もない。
「俺の料理の腕を見くびるなよ。とびきり旨いものを作ってやる」
「僕の話、聞いてますか」
「聞いてるけど、聴いてない」
「おかしなことを言わないでください。一体いつまで、はぐらかし続けるつもりですか」
「とりあえず今日は、まともな話をするつもりはない」
「どうして」
「腹減ったから。疲れたから。お前だってそうだろ。こんな状態で真面目な話をしようったって、身が入らねえよ。とにかく今日は、飯食って、風呂入って、寝る」
レックスは話を打ち切ると、レイに背を向ける格好となり、台所にてひとり調理器具と格闘を始めた。レイはそんなレックスの後ろ姿を眺めたまま、もう何も言わなくなった。
その夜レックスとレイは、レックス曰く「頬が落ちそうになるほどおいしい」牛肉のステーキを腹に収め、レックス曰く「時間を忘れるくらいに面白い」冒険小説の感想を語り、レックス曰く「不安だけど、でもちょっと楽しみでもある」明日からのことについて少し話した。アパートに帰ってからほぼずっと、ふたりでいた。まるで親子のようにずっとふたりでいたのだが、間にはまだ確かな距離があることを、互いに感じ取っていた。ただしレックスは、距離を縮めようと無理に歩み寄るようなことはしなかったし、レイもレックスのことを無闇に拒絶したりはしなかった。
翌朝、レックスは早くに起床した。食卓からパンの焼ける匂いが漂ってきたからだった。飛び起きて見に行くと、レイが簡素ながらふたり分の朝食を用意していた。澄まし仕立てのスープが温かく湯気を立てている。そこへ、くっきり焦げ目のついたトーストに、薄明るい緑と色濃い赤の野菜が入り交じるサラダもやってきて、卓上は彩り豊かになる。それでいてレイはさも当然のことをしたとでもいうような顔をして着席する。レックスが文字通り口をあんぐり開けて目の前の光景を眺めていると、レイが穏やかな朝には似つかわしくない冷たい眼差しをレックスに向ける。
「おはようございます」
「ん、あ、おう。おは、よう」
「常識の範囲内でなら、この部屋にあるものは自由に使ってもいいとのことだったので、作りました。冷めないうちに食べてください」
「お前、料理できるのか」
「こんなもの、料理のうちに入らないでしょう。ただ単に、孤児院では食事作りの手伝いをよくしていたというだけです」
「へえ、そうなんだ。世話係の人はやってくれなかったのかよ」
「僕のいた孤児院は『自分のことは自分でけりをつける』が基本理念でした」
レックスは数週間ぶりに時間に余裕のある朝食を取った後、朝陽を全身に浴びながら着替えを済ませ、出勤時刻を迎えるまでコーヒーをすすりつつ新聞を読むという、普段の慌ただしさとは比較にならないゆったりとしたひとときを過ごした。その間レイは四、五日分溜まっていた食器洗いを一手に引き受け、臭い立つごみ袋をアパート下に出しに行くなど、まさしく主夫のごとく働いた。
「そこまでしなくてもいいんだぞ」
ありがたいと感じる一方、出会って二日の孤児に家の雑事を任せている事実がだんだんと恥ずかしくなってきたレックスは、そんな言葉をレイにかける。レイも、まだ知って間もない警察官の私的領域に干渉する自身の行為を、どこか痛ましく感じたようで、切りのいいところで作業を中断してからは、所在なげにレックスの傍でじっとするばかりだった。
レックスが出勤してからのレイは、特に留守番も命じられなかったため、ひとりバノックの街に出た。人通りの落ち着く時間帯ではあったが、レイにとっては朝も夕も変わらない、煩わしい雑踏だった。下を向いて歩くせいで、しばしば誰かと衝突しそうになる。街路樹の下で立ち止まり、わき起こる苛立ちと不安を静めようと視線を遠くに投げる。離れていてもそれと分かる中央駅の上空に煙が上がり、人声の中、かすかに汽笛がここまで届いているのを確かめると、レイは少しだけ気分を良くした。レイの周りの景色は、彼がいたペンドリオールの町とは何もかもが異なっていたが、ただひとつ、機関車が走っているという点だけは同じだった。機関車は人やものを運び、国を生かしている。国は機関車に生かされている。もちろんそれは国の中心街であろうと、遙か遠方のレイの故郷の町であろうと変わらない。その事実は、レイの消え入りそうに弱い心を辛うじて支え続けていた。
レイは再び足を動かし始めた。アパートの郵便受けに入ったままだった周辺地図を頼りに、国立図書館を目指す。国で一番の蔵書を誇るそこは、バノックを歩いて間もないレイにもたやすく見つけられるほどに、壮観な建物だった。入館口の左右にそびえ立つ巨柱はさながら古代の神殿を思わせ、レイに進入を躊躇させる。しかし、子を連れた父親が仲睦まじげに入っていくのを目の当たりにすると、その親子を早歩きで追い抜いて館内に駆けこんだ。
受付員の物珍しそうな視線を浴びつつ広間を横切り、歴史書の区画へ足を踏み入れる。レイの背丈の何倍もある本棚が等間隔に並んでいる。古書が多いせいか、インクと黴の混じった臭いがレイの鼻を刺激する。レイはその臭いが好きだったので、目当ての本を探す作業は苦にはならなかったが、上段に手が届かないのはどうにもならない。近くの職員に梯子を用意してもらおうかと悩みながらレイが視線を上に向け続けていると、そこへ手が伸び、一冊の本を取った。レイが気づかない間に、男が隣にやって来ていた。
眼鏡をかけた、優しい顔つきの男だった。レイが何も言えずにいると、男は手に取った本をレイに差し出した。表紙には、淡い霧の奥の小さな駅に停まる蒸気機関車の写真が採られている。レイは目を見張った。かつて、レイが実際に見たことのある風景だった。
「これが読みたいのかい」
声も優しい男だった。レイは緊張と困惑とでまともな返事ができず、ただ頷くと目前の本を受け取った。ずっしりと重く、思わず取り落としそうになる。
「君にはまだ少し難しいかもしれないよ」
「だ、大丈夫です。たぶん」
レイはとっさに強がった。何故か、男に隙を見せたくないという気持ちが心の底で渦巻き始めるのを感じていた。
「ところで君は、学校には行かないの」
「えっ。いや、あの、どうしてそんなことを聞くんですか」
「君はどう見ても学校に行かないほど幼くはないよね。もちろん、すでに卒業しているという風でもない。今日は祝祭日でもなんでもない、ただの一日だ。学校に行くべきではないのかな」
「そ、それは、偉い人が勝手に決めたことです。それが通用するのであれば、おじさんこそ職場に行き、仕事をすべきではないのですか。こんなところで何をなさっているのですか」
「ふむ。そうきたか」
男はレイの反論を受けて、何かを考えこむかのようにぼんやりと本棚を見る。レイは油断するなと自身に言い聞かせ、男の次の行動を待つ。本当はレイの反論に対する答えなどとっくに思いついてはいるものの、あえて焦らすことでレイの反応を見ているのではないか、そんな根拠のない疑いでレイの頭の中はいっぱいになっていた。レイ自身、自分の反論が反論として弱いことを分かっていながらも、それ以外にどう返せばよかったのか、思いつかずにいた。
「じゃあ、そうだね。学校に行きたくないというのなら、行かなくてもいいよ」
「いいんですか」
「うん、いいけど。でも先ほど君はその本を読むという選択をしたが、果たして今の君に、書かれている内容を完全に理解することができるだろうか」
「馬鹿にしているんですか」
「あるいは、そうかもしれないが。一方では、君を導いているつもりだよ。君が理解したがっている情報が、森の奥深くにひっそりと存在するとすれば、君は森の中を歩いて進んでいかなければならない。知識という名の剣で、草木をかきわけていきながらね」
「難しいことを学ぼうとするなら、まずは簡単なことから学び始めろ、と」
「その理解力があるなら、本当に通学は必要ないのかもしれないね。いっそ、飛び級でうちの大学に来たらいい」
「大学。おじさんは、学校の先生ですか」
「先生ではなくて、教授というよ。モーゼズ・ガフだ。よろしく」
モーゼズはレイに握手を求めたが、レイの両手が本で塞がっていることに気づいて、苦笑いと共に手を引っこめた。気まずさをごまかすように、立ち話もなんだから、とレイを近くの長机に誘導し、座ってから話を続けた。
図書館でレイが得たのはイーグルの機関車に関する情報ではなく、モーゼズがユロックの町に校舎を構えるユロック大学の教授であること、ユロック大学は国内で随一、鉄道工学を専攻しており、ユロック大学に籍を置くことで、機関車の仕組みから鉄道国家の成り立ちに至るまでありとあらゆる鉄道学をいくらでも勉強できることなど、レイにとってはまだ遠い未来の選択肢のひとつについてのおおまかな事実だった。レイは機関車を学ぶ場の存在を知り、早くそこへ行きたいという思いばかりを強くした。レイは、機関車が好きだ。レイの恩師も、機関車が好きだった。
「私はまだ教授になったばかりで、年齢にも余裕がある。君が我が大学の門を叩きにやって来る日を待っているよ」
別れ際、モーゼズにそう言われて気分を高揚させてしまうほどに、レイの学に対する意欲は高まっていた。それは機関車についてもっと知りたいという純粋な好奇心からでもあり、一刻も早く一年前の機関車転落事故に隠された真実に近づきたいという焦りからでもあった。モーゼズから受け取った本にはモーゼズとの会話の途中で軽く目を通したが、レイが欲していた事故に関する記述は全くといっていいほどなかった。他の本や棚を調べたり、職員に関連書物がないかどうかを尋ねたりもしたかったのだが、モーゼズが見ている手前ではどうにもやりにくく、結局のところ、諦めて帰ることにしたのだった。
レイはモーゼズに、自分が事故について知りたがっていることを明確に伝えていない。レイはどこまでも、モーゼズという男に対して隙を見せたくないと思った。顔も声も優しいのに、どういうわけかその優しさを素直に受容することができなかった。単純に自身の性格が原因であるような気がしたが、それだけではない気もしていた。
「いいか。特別に、なんだからな」
その日の晩レックスは、レイの無賃乗車が南部警察の計らいにより、事実上の厳重注意で済まされることになったとレイに伝えた。レイ自身、罪から逃れたいと思っていたわけではなく、むしろしかるべき処置を受けようと考えていただけに、レイはレックスの報告に対して初め不快そうな反応を示した。しかし、今後この街で行動しやすくなるようにとレックスが考慮したのではないかという推測を頭に浮かべると、続けて不平を述べようという気にはなれなかった。
それでもしばらく時間を置くと、少しでも早く言っておきたい、言っておかなければいけないという信念がレイの中に立ちこめ、食後本に目を落とすレックスに、学校に行きたいという願いをぶつけていた。レックスは少し驚いたが、レイが本気で言っていることを感じ取り、ふたつ返事で願いを聞き入れた。
レイが通うことになったのは、ユロックの町に建つフリー・スクールだった。手続きは数日で完了し、レックスの部屋に住み始めてから一週間も経たないうちに、レイはまた新たな環境に足を踏み入れることになった。
「あなたが入るクラスの担任を務めますハンナ・コベットです。事情はレックスさんから聞いています。単なる転校生として紹介するから、レイ君も単なる転校生として挨拶してね」
腫れ物に触れるような態度は一切見せずに、ハンナはレイを教室に案内した。すんなり受け入れられたことに対し、レイはほっと胸をなでおろした。感情の持ちあわせが乏しく、その表出もあまり得意でなかったが、だからこそ多数から孤立し、迫害めいた扱いをされることへの恐怖は人一倍にあった。他人と必要以上に関わりたくないが、必要以下にもなりたくないと思っていた。だから級友たちを前にしての自己紹介も、本来より少し無理して明るく元気に、無難にこなした。結果レイはその日のうちに、クラス内に溶けこむまではいかないものの、波風立てず降り立つことに成功した。適度に話しかけられ、適度にからかわれた。レイもまた適度に答え、適度におどけてみせた。それらのほとんどはレイの心からの反応ではなかったが、級友たちがそれを見抜くことも、ただひとりを除いては、なかった。
「あんた、何をたくらんでるの」
授業後の教室にて、やや高く幼い声の少女は、できる限りその声の幼さを押し隠そうとするかのように、高圧的な言葉をレイに投げた。あまりに突然だったので、レイの緩みかかっていた緊張の糸は再び張りつめた。
「なんのこと」
「ごまかすんだ。まあ別にどうでもいいけどね、あんたが何を隠そうが。でもあたしの目はごまかしなんか通用しないから。あんたみたいに、本音を腹の中に押しこんでるような男の子って、あたし、一番嫌い」
「そう。ごめん、ネルさん」
「素直すぎ。気持ち悪い。あと、さん付けはやめて」
「えっと、じゃあ、ネル。僕の隠し事そのものはどうでもよくて、隠し事をしているっていうこと自体が気に食わないって、少し変だよ」
「認めたね、隠し事があるって。どうせ話す気ないんでしょ。そういう態度が嫌なの」
「じゃあ、僕はどうすればいいの」
「簡単よ。あたしの下僕になればいい。あたしの言うことは絶対だから」
「はあ」
「はあ、じゃありません」
やり取りを聞きつけて、ハンナがふたりに駆け寄る。一生懸命ネルの顔を目で捉えようとするハンナに対し、ネルは露骨に体の向きを逸らす。しかし表情に、さほど嫌悪感は表れていない。
「転校生に初日から何を吹きこむつもりかな、ネルちゃん」
「立場ってやつですよ。あたしとこいつは主従の関係であるべきなんです」
「レイ君が『主』で、ネルちゃんが『従』ね」
「なんでよ。逆だから、逆」
ハンナはネルの口の悪さを咎めることはせず、あくまで教師としての立場からは足を踏み外さない範囲で、ネルの憎まれ口に付き合った。ふたりを近くで眺めていたレイだったが、だんだんと顔を下げていき、ついには教室の床を見つめていた。レイにとって、この光景には既視感があった。辛いことを思い出させ、寂しい気持ちを呼び起こさせるものだった。アパートの廊下でレックスとエルシーの言い合いを目の当たりにした時も、レイはほぼ同じような感情を抱いていた。だから今回もその時のように、自身の弱く脆い心を見透かされない程度の言葉で場の空気を押しやり、終結させる。
「僕、もう帰ります。先生、ネル、さようなら」
「あら、一緒に帰ればいいのに」
「そうよ、下僕のくせに先に帰る気」
「ごめん、急ぐから」
夕陽色に染まる校舎を逃げるように出たレイは、時折なんとなく空を見上げながら、早足で家路に就く。歩く時に空の様子を確かめるのはレイの癖だった。レックスに手を引かれて「アップル・ヤード」に初めて訪れた日の夕空と、色合いも濃さもなんら変わりはないはずなのに、レイにはどこかが、何かが違う気がしてたまらず、足取りは速まるばかりだった。人で溢れる列車の中に場所を移しても落ち着きが戻らない。登校のために乗車した時はあまりの人の多さに辟易するだけだった。しかし今は不安すら煽る。知らない人間に囲まれて恐怖心を抱くなど、普段のレイには考えられないことだったが、中央駅に到着するまでの十数分間、レイは生きた心地がしなかった。周りの人間すべてが悪者に思えた。車両扉が開くと同時に列車を飛び出し、改札を抜け、走ってアパートを目指した。ものの五分で到着した。
レックスは部屋にいなかった。
レイはそこで、ふと我に返る。本当は急ぐ理由などなかった。ただネルのことが面倒で逃げ帰ってきただけだ。それなのにこうして部屋に戻ってくるまでずっと、自分がひとりだということに怯えていた。ひとりが嫌なら、ネルの下僕扱いを我慢してでも一緒に下校するべきだったのに、レイは自らひとりになり、それでいてひとりを怖がっている。あまりに大きく不可解な矛盾に、レイは頭を悩ませた。だがそんな間にも心の不安はしぼむことなく育っていく。今までレイが学校から帰る頃には、レックスはすでに部屋にいて、レイの帰宅を待っていた。ところが今日はまだいない。ならば今度は自分が待とうと長椅子に腰掛けるが、不安の波が定期的に押し寄せてきて、とてもじっとしていられない。レイはたまらず部屋を飛び出した。
「あ、居候の子」
仕事先から帰還したエルシーに真正面から呼び止められ、レイは心臓が口から飛び出るかと思うほどに驚いた。エルシーはレイの様子がおかしいことに気づくと、とりあえず姿勢を低くし、レイの顔をまじまじと見つめる。レイは驚きに驚きを重ねることになり、エルシーの笑みをまともに見ることができない。
「レックスなら、まだ帰らないよ」
「え、あっ、あの」
「秘密にしろって言われてるんだけど、喋っちゃおうかな。機関車強奪事件、だっけ。あのことで、あいつ、最近忙しいみたいだよ。後始末を他の課の人に丸投げしたのがばれたんだって。ま、自業自得だよね」
まるで悪戯っ子のように、エルシーは笑う。人前では滅多に笑わないレイも、この時ばかりはつられて一緒に表情をほころばせていた。それはレックスのことをおかしく思ったからではなく、エルシーの笑った顔がとても綺麗だからだった。
レイはエルシーにひとりで大丈夫かと心配されたが、その親切を断り、二〇一号室に舞い戻った。エルシーと顔を合わせたことで不安の波はすっかり引き、おとなしく留守番をする気になった。
ところが、レックスはいつまで経ってもアパートに戻ることはなかった。その代わり、もうすぐ日付が変わるかという時間に本人から電話がかかってきた。レイは机の上に設置してある薄汚れた電話機の受話器を手に取った。
「レイか。ごめんな、連絡が遅くなった。重ねて悪いが、今日はもう帰れそうにない」
「また何か、事件が起きたんですか」
レイの問いにレックスは多少たじろぐものの、声を潜めて答える。
「お前も当事者だから、知る権利はあるか。この前の機関車強奪事件なんだが、主犯の男ふたりの他に、もうひとり仲間がいることが判明したんだ」
「もうひとりって、車上には男の人ふたりと僕と刑事さん以外に誰もいませんでしたよ」
「車上じゃなく、単なる乗客のふりをして車内に身を潜めていたってことだ。今、その第三の仲間捜しで大変なんだよ」
「犯人を取り逃がしているのと同じで、信用に関わりますものね」
「そういうことだ」
レイの、明らかに他の同年代とは一線を画するもの分かりの良さ、ものの考え方を、レックスは殊更取り立てて会話の種にすることはない。レックスは夜行列車上で初めてレイと出会った時から、レイという少年の本質を本能的に理解していた。警察官としての能力等は関係ない。あらゆる付加知識を取り払った上での、レックスがひとりの人間としてレイを判断した結果だった。
「レイは明日も学校だろ。早く寝ろよ。寒かったら、ちゃんと厚着をするんだぞ。まだ春先だし、中央でも夜は冷えるからな」
「うん。ありがとう、刑事さん」
「おう。おやすみ」
「おやすみなさい」
電話は切れた。レイが受話器を置くと、無機質なベルの音を合図に、部屋の静寂が再開される。
レイはベッドではなく、長椅子に毛布を纏わせてひとりで眠った。機関車強奪の一件が完全に解決すれば、鉄道保安課もひとときは手が空き、レックスもしばらくは定時刻に帰ってくるようになるだろう。それでなくとも、着替えを取りにでも必ず数日以内には顔を見せに来る。それをレイは分かっている。エルシーの微笑で心の落ち着きは取り戻しているし、レックスからの電話は素直に嬉しいと感じていた。だから、部屋にひとりでいること自体への不安は、レイの心からはとっくに消え失せている。
それなのに、レイは寝つけない。蒸気機関車が発する黒煙のように、不安がレイの心の奥から湧き出し少しずつ拡散されていく。これは一体なんだ、とレイは毛布に顔を当てながら自問した。中央駅の方からかすかに届く列車の走行音が暗闇に沈む窓の向こうを過ぎ去った時、答え、のようなものが出た。
胸騒ぎがする。それが、レイの心境を表す最も的確な言葉だった。
翌朝レイが学校に着くなり、ネルは露骨に音を立ててレイに歩み寄ると、腕組みをして立ちはだかった。レイが無視して避けようとしても、ネルはしつこく彼の目前を保つ。レイは観念して、ネルに話しかけることにする。
「席に座りたいんだけど」
「その前に言うことがあるでしょ」
ネルは女の子らしからぬ目つきの悪さでレイを睨んでいる。
「朝教室に入ってきたら、まず、おはよう、って挨拶するの。常識よ」
「級友を下僕扱いするような人に常識を説かれても困るな」
「ふん。おとなしそうに見えて、なかなか言うじゃない」
今までの睨みのきかせようから一変、やや挑戦的なものが含まれたままではあったが、ネルの表情は柔らかく崩れ、口角も下がった。レイは皮肉で機嫌を直したネルに疑問を抱くが、すぐに晴らした。ネルはレイを本当に嫌っているわけではない。むしろ、仲良くなりたいと思っている。ただ、やり方が下手なだけだ。ネルは、毎日の中で些細な皮肉を言い合えるような話し相手が欲しいのだ。
「昨日はいきなり帰っちゃってごめん」
「そうよ。コベット先生も心配してたんだから。私、何か気に障るようなことを言ったかしら、って」
「ううん。そんなことない。先生も、ネルのことも嫌じゃないよ。急ぐほどの用があったっていうわけでもなかったし」
「何それ。嘘をついてまで、ひとりになりたかったの」
「うん。早くひとりになりたくて急いで家に帰ったはずなのに、帰り道、ずっと、ひとりでいることがすごく怖かった」
「ふうん。まあ、理解できなくはない」
意味不明だ、などと罵倒されることを覚悟して発言したレイだったが、ネルは淡白な反応を返すのみだった。レイは心のどこかで、矛盾した思考に苦しんでいる自分を、ネルに怒ってほしいと思っていたので、少し気落ちする。ネルは怒りを露わにするどころか、これまでの彼女には似つかわしくない、ひどく悲しげな表情を浮かべる。
「あたしもたまにある。ひとりになりたいけど、ひとりになりたくない時」
「変なの」
ネルが変だと言わないので、レイが言ってしまっていた。ここでようやく、ネルが腹を立てる。
「あんたが言い出したんでしょうが」
「うん、だから自分でもおかしいなって。今の話、忘れてくれていいから。席に着こ、授業が始まる」
レイの言葉に応えるかのように、ハンナが教科書とノートを片手に教室へ入ってきた。賑わっていた教室が静かになる。まだ何か言いたげなネルも、授業の準備を始める。全員が自分の席についたことを確認すると、ハンナは張り切った笑顔を見せる。昨日よりも自然さが欠けており、力が入っていた。朝礼と出欠確認を済ませても、強ばった笑みに変化はない。
「今日の授業ですが、一日かけて、あることについて勉強します。最初にはっきり言っておくね。みんなにとって、かなりつらいものになります。途中で気分が悪くなったら、遠慮なく私に教えてください」
ものものしい導入に、授業を受ける者たちは互いに顔を見合わせる。だがネルとレイだけは違った。直感だが、これから何が始まるのかを知ったのだ。ハンナの言葉に嘘はない。ふたりにとって、とてもつらいこと、つらかったことが、授業の主題となる。
「今から、一年前のことです。私たちのいるこの学校のずっと北にある渓谷で、鉄道事故が起きました。列車の走行中に谷を跨ぐ橋が壊れ、列車が谷底に転落してしまった、というものです。たぶん、みんなのほとんどはよく知っているんじゃないかな。今でこそ静かになったけど、当時は本当に騒がれ方が普通じゃなかったものね」
ハンナの授業での語り口は、教師らしい公的なものと、教え子と対等でありたいという思いのこもった砕けたものとが入り混じっている。お堅い先生も嫌だけど、馴れ馴れしすぎるのも嫌。そんな声にできる限り応えようという彼女なりの努力が、そこには表れている。
「車両は現在でも渓谷下にあるまま、地上に引き上げられていません。乗り合わせていた人たち約二百人ほどの尊い命が、一瞬にして失われてしまいました」
「どうして、引き上げないんだろう」
誰かがつぶやくように発した。ハンナはゆっくりと頷き、動ずることなく発言者の目を見据える。
「危険だからです。今のこの国には、馬鹿でかい機関車を牽引する力はあっても、それを下から上へ引っ張り上げる力はないの」
「人の命がかかってたのに」
人の命。その言葉を皮切りに、意見が連鎖していく。
「わたしも同じこと思った。いくら危ないからってさ、谷底に落ちちゃった人たちのことほったらかしにするの、ひどいよ。もしかしたら生き残った人もいたかもしれないのに」
「でも、救助活動する側だって命がけだろ。俺の親父、機関士やってるから知ってんだ。あの谷、すっごく深いんだぞ。一度そこまで降りたら、簡単には戻ってこられないんじゃねえの」
「だけど、なんとかするべきだったって。絶対」
「今更悔やんだってどうにもならないし、どうしようもないよ。どうせみんな、助からなかっただろうし。起きてしまったものは元には戻せないし、二度とあんなことがないように祈ることしかできないよ、わたしたちには」
「だからそもそも、橋が壊れるほど重たい機関車が悪いんだってば。設計不備じゃん」
「その設計した人も乗ってたんだけどね。それにほら、ロブ君も」
レイは、偶然隣の席だったネルの顔を横目で盗み見る。口をきゅっと結び、教卓前のハンナを強気に睨みつけている。ちらりと一瞬見ただけでもレイには分かった。明らかに我慢している。感情を抑えこんでいる。ロブという名があるひとりの口から出た時、ネルはとうとう視線を下げた。開かれたままの真っ白なノートがそれをただ受け止める。
このままでは収拾がつかないと判断したハンナが、一旦区切りをつける。
「みんな、意見を出してくれてありがとう。みんなには、事故を受けて思ったこととか、感じたこととかを、どんどん発言していってもらいたいんです。授業は授業なので、私も板書はしますしノートも取ってもらうけど、さっきみたいに正直な感想だって大歓迎。遠慮しなくて結構です。言いたいことを言ってください」
ハンナは、ひとりひとりが機関車事故に対して思い思いに放った発言を箇条書きで黒板に書きとめていく。板を埋めつくす白文字は、教師らしく整然としており、彼らの「うまく言えないけど、本当はこういうことが言いたい」気持ちを汲み、簡潔にまとめていた。また、途中ハンナが適度に話題の方向を修正していくので、授業の密度はだんだんと濃くなっていった。
レイはその濃さに、むせ返りそうになる。
ネルも、普段は積極的に発言をするのに、今日は授業が始まってから一言も発していない。
直接関わりのない者たちの言葉は、ある時主観的であり、客観的でもある。事故が起きてしまうような機関車を造った人間が悪い、何かの陰謀だ、誰かが故意に橋を破壊して機関車を転落させたのだ、仕方がない、あれは不慮の事故だった、乗り合わせた人たちはたまたま悪運に見舞われただけのこと。ある者は悲痛さを抱え、ある者はやり場のない怒りを伴い、ある者は投げやりな諦念と共に、言葉を議論の場に放りこむ。そのどれもに幼さと拙さとが見え隠れしていたが、レイの心に小さな傷をつけるのには十分な鋭さだった。どんなに幼くても、拙くても、そこには冷たさ、厳しさがある。客観であっても主観であっても、事故と直接関係のない彼らには残酷な言葉しか発することができない。それが良いことではないが、悪いことでもないとはレイも分かっているし、理解している。変に同情されるよりかは、思ったままを言ってもらえたほうが良いと、自分の中で結論づけている。しかし言葉をかける側が幼ければ、言葉を受ける側もまたそうであるために、どうやっても無傷でやり過ごすことができない。レイも、それからネルも。
ふたりは、どちらともただの傍観者ではない。
「なんで、こんなことするんだろ」
ネルのか細い呟きがレイの耳に入る。独り言のようであり、ハンナに対してのもののようにも、レイには聞こえた。昨日の、歳の離れた友達同士でするようなやり取りとはまるで違う思いが、彼女の声に表れていた。
「ただのお勉強でしょ。倫理教育ってやつ」
レイも呟きで返す。ネル以上に声量が弱い。
「せっかく目をそらしてたのに、無理矢理頭を押さえつけられて、強制的に見せられてるって感じ」
「目をそらしちゃいけないってことなのかな」
もしかしてロブのことか、と言いかけたのをやめて代わりに出たのは、レイ自身のためでもある言葉だった。あえて声に出すことで、心の奥で蠢く得体の知れない感情を消し去ろうとした。昨夜ベッドで生まれた出所不明の胸騒ぎは今も続いていて、この授業でさらに悪化していくのを感じる。
「じゃあやっぱり、ただのお勉強なんかじゃないってことよね」
「僕らにとってはね」
一括りにしてしまうかしまわないかでレイは少し迷ったが、結局ネルの心境を深く推察しないまま僕ら、でまとめた。ネルは無言だった。それが答えだった。ネルもまた、レイが自分と同じような立場にいると悟った。
皮肉にもふたりは、苦しみに向き合わされたこの特別授業を通じて、互いの立ち位置を知った。
「すみません、ハンナ先生、ちょっと」
意見交換が白熱しかけようという時に、闖入者が表れた。高年の男だった。やや猫背気味で、レイから見ても気弱な印象を与える。ハンナよりずっと年上のはずなのに、彼女の方がより昂然としている。
ハンナは男に近づくと、男の小さな声に熱心に聞き入る。次にハンナと男は同時にレイの顔を目で捉えた。
「レイ君。帰る支度をして、校長先生と一緒に職員室へ行きなさい。他のみんなは、私と授業を続けます」
ハンナの緊張感を伴う指示により、レイは授業を途中退席することになった。ここでもまた、レイの中に一貫しない道理に支配された感情が去来する。事故についてもっと知りたい、真相を知りたいと思う。そのためにはここにいなければいけない。しかし、校長からの呼び出しにより授業を抜け出すことになった時、レイは安心した。過去の辛い出来事と向かい合わなくて済むから。自分と同じように苦しんでいるネルの隣から一時的にでも離れられるから。すべてに嘘や偽りはなく、極めて実直な思いである。ところがそれらを横一列に並べると、明らかに食い違っている。全部本当の気持ちのはずなのに、どれかが実は偽物なのではないかと自分で自分を疑い出す。レイは、完全に混乱していた。混乱が解けないまま、学校長と共に職員室へ入った。
ネクタイをきつく締めたレックスが、神妙な面持ちを浮かべて立っていた。
「すみません、わざわざ呼び出していただいて」
「いえ、それは構わないのですが。一体どうなさったのでございますか」
レックスは気弱そうな学校長に依頼して、授業中であることを承知の上で、レイを自分の元に呼び寄せた。相応の理由による行動だった。
「時間が限られているので、簡潔に。今からレイを中央駅まで連れていきます。先日発生した、機関車強奪事件の主犯二名の仲間と思われる者から『ふたりを逮捕した警察官とその時人質になっていた少年を自分のところまで連れてこなければ、もう一度列車を乗っ取る。今度は必ず乗客全員を道連れにする』という脅迫文が寄越されたからです」
レイはともかくとして、学校長も事態を今この場で知らされたのか、驚愕を顔にはっきりと浮かべていた。レックスは学校長に状況を説明するよりも先に、レイを連れてくることを優先させた。
「ちょ、ちょっと、お待ちください。つまりあなたは、犯人側の指示に従うというのですか」
「従わなければ、人民に危害が及びます」
「それは、そうですけど、以前聞かせていただいたお話から予想するに、犯人はレイ君を少なからず恨んでいるのではないでしょうか。なのに正面切って会わせようだなんて」
「承知の上です。もちろんレイがなんらかの被害を受けるようなことは絶対にないように、細心の注意を払います。周囲に警察官を極秘で複数人配置し、何かが起きる前に私が迅速に犯人の身柄を確保します」
アパートの部屋で好きな冒険小説について語る時、仕事の愚痴をこっそりこぼす時のレックスとは、まるでかけ離れた緊迫ぶりの長広舌に、レイは目を丸くする。一方、学校長はまだ納得できないようで、脂汗を額に滑らせている。
「失礼ながら、レイ君を預かる者として、はっきり申し上げます。軽率です。凶悪犯と接触させるなど、私があなたの立場なら考えられません。あなたは警察官なのですよ。いいえ、それ以前にあなたは、レイ君の保護者なのですよ。レイ君の身の安全を第一に考えるべきなのではないですか」
レックスは見るからに苦い顔をするが、黙りはしない。学校長の反対意見は覚悟していたし、返答もあらかじめ用意してあった。だがそれを口に出す時の辛そうな声色には、彼が警察官としてではなく一個人として未だに納得できていない事実をほのめかす気が含まれている。
「返す言葉もございません。こんな選択しかできない自分が、情けないです。ですが私は、レイを必ず守り切ります。この事件を、今度こそ終わらせます」
レックスに言い切られた学校長は、まるで自分が間違っていたと認めるかのように、力なく頭を垂れる。職員室内には今、レックスたち三人以外誰もいない。にもかかわらず室内を支配する空気は重たく、苦しい。
「行くぞ、レイ」
レックスの声までもが、鉄のように重みを帯びている。レイの手を握る。レイはレックスの掌の感触を、炎のように熱いと感じた。レイの手は冷たい。それどころか、身も心も氷だった。魂までも、氷の中に閉ざしていた。
だが、氷にはすでに、一筋の裂け目が走っている。
本当に非難されるべきなのはレックスではなく自分だ。そんな自責の念をレイは、これまでずっと心に宿して毎日を過ごしていた。一時的な気の迷いで自ら捕らわれて、かといって犯人側の味方はせず警察側に手を貸した。もしあのふたりの他にも仲間がいたとしたら、主犯のふたり組が逮捕されるに至るまでの顛末を、その仲間が知ったとしたら、レイの存在を恨むのは至極自然な流れであり、だからこそ捕らわれ損ないは、レックスだけでなくレイも呼びつけたのだ。
レックスもまた、レイが機関車強奪犯を本能的に恐れていると、毎日の暮らしの片鱗から感じ取っていた。レイを苦しめる恐怖から解放してやるには、たとえ危険だとしても本人を直接関わらせてやらなければならない、実際に目の当たりにさせるだけでもいい、レイ自身が引き起こした事象に「けりをつけさせてやる」必要があると信じていた。
それがレックスの考える、保護者としての責任の取り方であったから。
「これは危機じゃなく、好機だ。俺が本気だってことを教えてやる。見ておけよ」
「うん」
レイは、レックスの手を強く握り返す。静かに芽生えた信念を胸に、自身の氷解を覚悟する。
ユロック小学校から中央駅までの道のりは、町を周回する大型の公共乗合車を使った。警察車で向かっては、捕らわれ損ないに警戒されてしまうおそれがある。あくまでも相手にするのはレックス巡査と少年レイのふたりだけだ。乗合車の中ふたりは、あらかじめ示しあわせたわけでもないのに緊張感をあまり表に出さず、無言で親子を演じた。駅から少し離れた停留所で降り、そこからは歩いた。ふたりにとって辿り着くまでの時間は、短いようでいて、いやに長かった。
中央駅はなんらかの方法で人払いがなされたのか、嘘のように閑散としている。レックスとレイは捕らわれ損ないをすぐに発見することができた。駅構内へ続いている広く緩やかな階段を上り、互いに顔がはっきりと確認できる場所まで歩を進めた。
捕らわれ損ないは中肉中背の男だった。右手に果物ナイフを握りしめている。顔も貧相で頬がこけており、見た目だけで判断するのであれば、巨漢や細身と比べると脅威は小さい。レックスは懐の拳銃の所在を今一度手で触って確かめる。レイはレックスの影に隠れ、じっと相手を見据えていた。
「仲間を解放しろ。さもなくば、このまま列車から降りてきた乗客をひとりずつ刺してやる」
声も震えている。なけなしの勇気を振り絞り、やっとの思いで言い切ったという風だった。
「残念だが、お前が抵抗をやめるまで列車が中央駅に到着することはない。各機関士に運転見合わせの措置を取らせる手はずになっている」
「じゃあ、そこのガキだ。そいつをやってやる」
果物ナイフの刃先が下を向く。目を見開き怯えるレイの眼前に、レックスの掲げた腕が伸びる。
「これから俺が、お前の身柄を確保する。これ以上、無関係な人間をお前たちの勝手な犯罪行為に巻きこむんじゃない」
「勘違いするなっ。私たちは正義の下に動いている。断罪される筋合いなど、どこにもない。この国中を這いずり回る忌まわしき鉄の蛇共を一匹残らずしとめあげ、信ずる人びとに恒久的安寧を与するべく、私たちは」
男の主張が最後まで通らないうちに、レックスの肢体はレイの傍を離れ動き出していた。男の手首めがけて手刀を打ち、凶器を失わせようとする。男はレックスの攻撃を瞬時に回避した。距離は近いままだ。レックスと男とが、正面切って相まみえる。
「かかったな」
男は不気味な冷笑を顔面に張りつけると同時に、果物ナイフを自ら地面に放り捨てた。レックスの注意が一瞬、ナイフに向く。
次にレックスが男を見ると、目の前には銃口があった。
レックスではなく、男の懐から出てきた拳銃だった。余程訓練を重ねたのか、素人とは思えない指の動きで、引き金は引かれた。
構内を、銃声が貫いた。
次いでレイの、レックスの名を叫ぶ金切り声が天を衝く。
レックスは、男の眼下でうずくまっていた。膝を折り、頭を垂れ、掌を地に着ける。
銃火は、男の左足首を傷つけていた。服に鮮血が染みていく。果物ナイフの小汚い銀の刃に、苦痛に歪んだ男の顔が映りこむ。すぐ横には使われた形跡のない拳銃が一丁、無造作に放られていた。
レックスの左手には、硝煙を口から燻らす四十五口径がある。レックスが遅刻した朝、彼の額にあてがわれたものと同じ拳銃だった。
「確保しろっ」
スカーレット・マイヤーが怒鳴り上げると、物陰に潜んでいた刑事たちが一斉に男にとびかかり、男の四肢を拘束した。ナイフと拳銃はカイルがしれっと回収し、呆然と立ち尽くすレイには、ジェイミーが優しく寄り添う。
中央部を騒がせた機関車強奪事件は、事件発生から二週間の時を経て、解決した。男の両手に枷がかけられたことを確かめると、レックスはレイの方を見やり、にかっと笑う。
「どうだ。俺はそう簡単には死なないぜ」
今度は、レイがその場に座りこんでしまった。
以来、走行中の列車が乗っ取られるような事件は発生していない。
強奪犯が所持していた拳銃の出所は今なお不明のままで、誰も口を割ることはなかった。巨漢だけは半ば投げやりな調子で、ある人物から譲り受けたという事実を自白したが、そうして示された人物もまた、過去にどこから仕入れたのかも明らかにされていない型の拳銃で発砲事件を起こしており、根本を掘り当てるのには時間がかかるだろう、との見解を捜査一課は示した。
捕らわれ損ないの男が拳銃を隠し持っていた件に関しては、レックスが事前に予見していた通りだった。機関車強奪事件の当日、列車内で発砲された弾は二発、乗客の証言では、放たれた弾丸は二発とも巨漢によるもので、細身は発砲していない。ところが二名の逮捕後それぞれが所持していた拳銃を調べた結果、装填されている弾数が事実及び証言と食い違っていた。この国では警察以外の機関が拳銃を所持ないし製造することは法で禁じられている。このことから、逮捕された二名の他にも拳銃を不当に所持している人間、つまり強奪犯の仲間もしくはそれに準ずる者の存在が当初より疑われていた。レックスは男と対峙した時、寸前で果物ナイフが相手を油断させるための罠であると気づき、銃には銃で先に一手を決める作戦を採った。とはいえレックスにも余裕があったわけではない。彼にとって、拳銃で生身の人間を撃つのは初めてで、そもそもできることなら銃には頼りたくないと思っていた。だが男がレイを狙うつもりだと分かり、形振り構っていられなくなったのだった。
守られた当のレイは、ジェイミーに肩をそっと叩かれた途端、どっと大声を上げて泣き出してしまった。レックスが慰め、なんとか声は収まったものの、レイの目からこぼれる涙は一向に止まる気配を見せなかった。レックスはこの日もまた、レイの面倒を見なければいけないと理由立てし、男の逮捕の事後処理を手柄もろとも他の刑事に押しつけてレイと共に一足早く帰宅した。感情表現に乏しいはずのレイ少年が泣き顔を晒しているのを間近に見たせいか、さすがに文句をつけようとする者は現れなかった。
アパートの部屋に戻り、着替えと軽食を済ませた後、レックスはレイに言葉をかけもせず、まるで先ほどまでの間何事もなかったかのように長椅子に寝転がり、読みかけの冒険小説を手にくつろいだ。ときどきだらしなく肌を見せながら背中を掻き、欠伸までする。レイも何をするでもなく、傍にいた。しばらくすると、数分に一回程度の頻度で雑談が発生した。一方が話をふっかけ、もう一方がそれに対して何か返した。そんな無意義な会話を繰り返すことで、レイは混乱に混乱を重ねていた自身の気持ちに整理をつけようと試みていた。やがて気持ちの整理がつかないでいることすらレックスに見透かされていることを悟り、何かを諦めたように軽く笑った。その時レックスは開かれた本を顔の上に乗せていた。
「刑事さん」
小さな声だったが、レックスは確かに聴き取っている。
「ごめんなさい、お礼を言いたいんですが、これまでいろいろいっぱい助けてもらいすぎて、どれと、どれに対して言えばいいのかとか、整理できていなくて。あの、とにかく今日は、僕のことを守ってくれて、ありがとうございました」
「レイが一緒についてきてくれたから、撃たれずに済んだんだよ」
「本当ですか」
「うん。俺がレイを守ったんじゃなくて、俺とレイが力を合わせてひとつ問題を片づけた。だから今日のことに恩とかさ、感じる必要ないよ。ただし、今まで面倒見てやったことには感謝するように」
「恩着せがましいですね」
「うるせえよ。面倒見てやってんのは事実だろ」
レックスの顔は本で覆われたままなので、レックスが言葉を発する度に本がかたかたと揺れる。その動きがレイはおかしくて、これから真剣な話をしようとしているのに、思わず吹き出してしまいそうになる。
「あの、刑事さん」
「ん」
「僕、決めました」
「何を」
「僕が知っていること、すべてお話しします」
二〇一号室を包む居心地の良い静寂に、亀裂が入った。
「一年前の北部渓谷機関車転落事故は、本当は、事故ではありません。人為的に仕組まれたものです」
亀裂は進む。
先ほどまで呼吸により膨らんだりへこんだりしていたレックスの腹が静止している。
「僕は事故について、ひとつだけ誰も知らないことを知っています。自分ひとりじゃ、とても解決できそうにないのに、怖くて、今まで誰にも言えなかった」
窓の向こうを、機関車が走っている。
機関車は仄暗いバノックの街を、重く、冷たく駆けていく。
「事故を起こしたのは、僕のお父さんです」
静寂は壊れた。
レックスの顔を隠していた本が、床に落ちてくしゃ、と音を立てた。表紙の左下隅に、大きな醜い折り目がついた。